
「揺るがない一本の線」
イザヤ43:1~7
使徒言行録15:1~11
「律法を守り行わなければ救われない」という教えは、ユダヤ人にとっても重荷であり、苦しみの根源でした。なぜならば、律法というものは一つでも守らなければ、全部守らなかったことになってしまうからです。しかし、イエス・キリストの恵みによって救われるという福音が、律法という軛(くびき)から苦しむ人々を解放していきました。
そもそも軛という言葉には「自由を束縛するもの」との意味があり、軛を逃れるとは「束縛から解放され、自由になる」という意味があります。誰でも自分の人生に束縛や重荷を負って歩んでいます。そして、私たちにはそれぞれの軛があり、そこからの解放を願いつつ、心の奥底で自由と安らぎを求めているのです。
かつて、イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と語られました。
ここから、キリストに重荷を負ってもらうだけでは、私たちに祝福が来ないことがうかがえます。試練と祝福が繰り返し交互に来るのが、神が私たちに与える人生です。自分の軛を負ってもらうだけではなく、「互いに愛し合いなさい」というキリストの軛を負い、それをキリストから学ぶことによってこそ、私たちは祝福を得ていくことができるのです。
キリストから学ぶのは「神の愛」に他なりません。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束してくださる神の愛を信じましょう。そこから「揺るがない一本の線」のような信仰をいただいて、自由と安らぎの祝福を得ていくのです。
牧師 : 宮本幸男