
出エジプト記32:1~14
使徒言行録14:1~20
使徒パウロとバルナバの言葉と、それを信じないユダヤ人の言葉のどちらが正しいかを巡りって、イコニオンの町は分裂していきました。そして、ユダヤ人の側についた人々は、間違っているように思えた使徒たちを暴力によって排除することを企てます。しかし、それを察知した二人は衝突を回避し、素直に賢く逃れて、次の宣教地であるリストラに入っていきました。
そこには生まれつき足が不自由で歩いたことがない男がいました。パウロがその人を言葉の力によって癒して歩けるようにすると、それを見た町の人々は、使徒たちのことを神々が現れたと信じて拝もうとしました。しかし、使徒たちは「あなたがたがこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように」と叫んで、その行為をやめさせたのです。
ここで「偶像」と訳されている言葉は、ギリシア語で「偶像」を直接表す言葉は使われていません。「むなしいもの」「無にすぎないもの」という意味の言葉が使われています。パウロとバルナバは、リストラの町の人々に「自分たちはむなしい人間だ、生ける神ではない、生ける神に立ち帰るように」と強く呼び掛けたかったのでしょう。
私たちも、自分と考えの違う人を排除したくなってしまうことがあります。その時に私たちは自分の心に「むなしい偶像」を造って頼ろうとしています。そして、それがさらにエスカレートしてしまうと、自分の考えや自分自身を絶対化し、神のように振る舞うことさえあるのです。
絶対は神だけであり、私たちは神に造られた被造物にすぎません。確かに「これは絶対に譲れない」ということもありますが、この世界のほとんどのことは、冷静に考えると、どちらでも構わないというものばかりではないでしょうか。
だから、人の言葉に惑わされるのでもなく、主から自分に与えられる言葉だけを聞いて信じましょう。主だけを頼みとし、主に生かされている自分を生きるのです。その時、主イエス・キリストは必ず「私たち一人ひとりの側」についていてくださっています。私たちは、ただそれだけを素直に賢く喜べば善いのです。
牧師 : 宮本幸男