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「まるで定められているかのように」
イザヤ49:1~9
使徒言行録13:42~52
ここに書かれている「永遠の命」のことを、私たちはどのようなものと考えているでしょうか。ヨハネ福音書17章3節には、イエスが天を仰いで父なる神様に祈る言葉として、「永遠のいのちとは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と書かれています。
それは知識的に知ることではありません。ユダヤの文化の中では、知ることとは「親しい交わりに入る」ということです。つまり、私たちがイエスの愛によって神の愛を感じ、その神との親しい交わりに入ることです。そして今、自分が神に愛されている確信を持って生きているのならば、すでに私たちはこの世において永遠の命を得ているのです。
また、「永遠の命を得るように定められている」という言葉は、救われる人は「永遠の昔より神が定められていた」ということではありません。それは神が定めたというよりも、神の救いの言葉に、その人がどう応答するかによって決められていくことです。
イエス・キリストを救い主と受け入れていった人たちは、この世の困難や試練の中にあっても、恵みによって神に愛されていることを知りました。だから、彼らは自分に与えられた人生を引き受けて行くことができたのです。その尊い生き方を周りの人が見て、まるで「定められている」かのように見えたのだと思います。
そのような生き方を続ける秘訣を、聖書は「神の恵みの下にいる」こと、そして「喜びの中で聖霊に満たされる」ことだと語っています。聖霊に満たされ、神の力と助けによる恵みの下に生かされていく時に、私たちは永遠の命を得ているかのように神を賛美し、いつも喜んで生きることができるのです。
また、その時に大切なことは「1対1の関係」の中での救い主イエス・キリストへの信頼です。努力や訓練によってそのような生き方はできません。今も生きておられ、共にいてくださるキリストに信頼することこそが、生涯の終わりまで永遠の命を感じて生きていくことを可能としていきます。
牧師 : 宮本幸男