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説教要約2025/1/19「愛して赦す救い主」

「愛して赦す救い主」

2サムエル7:15~16

使徒言行録13:13~25

 

 イスラエルの歴史を通して働かれた神は、イスラエルの民を選び出し、不信仰に耐え忍びながらも彼らを導いていかれました。意に沿わぬことではありましたが、彼らが自分たちの王が欲しいと言い張った時にも、それを忍耐して受け入れて、彼らに豊かさを与えようとサウルを王として立てました。

 

 さらに、ダビデを王として立てた時には、ダビデをご自分の御心に適う者と認めて無条件契約を結びます。その契約は「ダビデの子孫は永遠に王座に就く」というものでした。これがダビデの子孫として登場する救い主メシアの預言として信じられていきました。

そして洗礼者ヨハネがイスラエルの歴史の中に登場します。彼は人々に厳しい言葉で、神の掟である律法を守るための悔い改めを求め、ヨルダン川でそのしるしとしての洗礼を授けました。その姿に多くの人々は、ヨハネが来るべきメシアではないかと思いました。しかし、ヨハネは自分ではなく、イエスこそメシアであると確信して「わたしはその足の履物をお脱がせする値打もない」と宣言するのです。

 

 確かにイエスがヨハネから洗礼を受ける際に「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」との声が天から聞こえてきました。けれども、ヨハネがそのような宣言に導かれたのは、彼がその後のイエスの活動を見聞きして、ダビデと同じような神の御心に適う者と認めたからだと思います。

 

 イエスは律法が守れずに罪人とされている人であっても、愛と赦しを持って接していました。それによって多くの人々が自分の罪を認め、悔い改めて、真の救いを得ていました。ヨハネは律法の行いではなく、神の恵みによる救いをそこに見たことでしょう。

 イエスの愛と赦しは今も私たち一人ひとりに語りかけられています。ですから、聖書を読む中、祈りをする中で、いつもイエスと出会っていきましょう。イエスと出会う中で、罪赦されていること、愛されていることを感じ、救いの確信をいただくのです。それは、私たちも誰かを赦し、愛していくことが出来るようになっていくためです。また、私たちが互いに愛し合う「神の国」を見るためなのです。

牧師 : 宮本幸男

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