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「阪神大震災を顧みて」

 阪神大震災から30年が経過しました。テレビでは「震災の教訓を次世代へいかに繋いでいくか」などのテーマで特別番組が放送されています。震災記念日に際し地震で亡くなられた方々へ今一度祈りを捧げさせていただくと共に、被災した香櫨園教会の当時の状況を書き綴った「阪神大震災を顧みて」の一文を掲載させていただきます。以下は、女性教職神学研究第12号(発行:女性教職神学研会1996年6月)に掲載された記事です。

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「阪神大震災を顧みて」

日本キリスト教団 香櫨園教会 古河静子

 

 1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神大震災は震度7の激震で、家屋 全半壊16万棟, 負傷者3万5千人以上、死者6千人以上を数えるに至りました。それまで地震といえば関東大震災と口走っておりましたが、72年振りにそれを上廻る地震が発生し、震源地である淡路北淡町から神戸、芦屋、西宮を中心に六甲山系の活断層が地をゆるがしました。

 

 地震の時わたしは起きておりました。寝ていた部屋は本棚が倒れ、食器が散乱し、もしその部屋に居たならばスリッパもない故にわたしは大怪我をしていたと思います。 地震がおさまった頃ドーンと大きな音がしましたが、真っ暗で何が何やらさっぱり分らず、懐中電灯のケースも飛び出し、やっとの思いで室外へ出ることができました。後でドーンと大きな音がしたのは電子レンジとわかり、もしも体に当たってきていたら、わたしは立ち上れない状態になっていました。あゝ助けられたと思いました。

 

 今度の地震は直下型で大都市のすぐ下を激震が襲い、都市の動脈である高速道路、橋脚、鉄道などが壊滅的な被害をうけ、世界でも例のない大震災といわれます。いずれも電気、ガス、水道が途絶し、通信も殆んど不能状態になりました。しかし、わたしの町は幸いなことに電気だけが早く復旧し、テレビでの消息がわかったのでまだ活動し易いでした。

 

 教会では毎朝早天祈禱会を行っていて、当日朝もいつものように夫がストーブに点火するつもりでした。しかし、前日三田市に於て訪問伝道大会があり、疲れて (車の渋滞のため) 起きられず、起床が5分遅れたところにドーンと先ず縦ゆれが来て、続いて大ゆれしてストーブに点火することができませんでした。 二階から階段を降りてみると、ストーブは祈禱室の隅に移動し、これは耐震性のないストーブでしたので、いつも通り点火しておれば大火事になっていたかも知れない、もし燃えていたら教会もわたしたちの生命もなかったのに・・と心から感謝いたしました。

 

 皆が倒壊したと思っていた教会は築後33年の歴史があり、基礎の一部が陥没、壁にひびが入り東へ傾き、軒先が隣の建物とくっつき、建て替えなければならなくなりました。 しかし地震後はじめての聖日は8名で礼拝を守ることができました。説教は私の担当で、御奉仕ができたことすべてが感謝で、神の御あわれみがなければと、ひしひし感じ入りました。 教会員のなかには茨木から途中電車がなくリュックを背負い歩いた人もありました。

 

 暫くはサイレンの音の中で礼拝をしました。 幹線道路は緊急の車しか通れず、普通車は町の中に渋帯をつくりました。 新聞紙上は死者の名前で埋まり、建物の被害は壮絶の極みでありました。液状化で河川も被害がありました。

 

 知人宅を訪問しての帰り道、ふっと目を上げると国道43号線の幹線道路が切れてバスが宙づりになっている光景が目に飛び込んできた時は 「あっ」と息を呑みました。これらの未曽有の有様を忘れてはいけないと出来るだけカメラにおさめました。

 

 或る障害者の女性のアパートが全壊して2人が亡くなりました。しかし、そのガレキの前で本人と出逢うことが出来て安堵しました。 何と40時間も埋もれ、本人はベッドと百科辞典が傘のように開いたその空間で呼吸していたと。 やっと機械が入り、「ここからは手掘りにしよう」との声が聞えていたそうです。 救出され脱水状態をいやすため入院されました。

 

 わたしたちはガスや水道が出る迄は忙しく働きました。 炊き出しの食事を高齢者に運んだり、教会や関係者に物資やお見舞をしたりされたりで、垣根の境がとれて誰とでも話の出来ることを味わった期間でありました。 又忘れられないのは、大きな道路をリュックを肩に黙々と神戸へと歩く人たちの姿でありました。

水の配給やガス修理の工事は全国の各会社の奉仕によって修理していただきました。 「共生」 の喜びを感じることができました。

 

 1年前の3月3日は忘れられない日となりました。教会関係のボランティアとして東京からも青年たちが支援に来て下さり、そのなかで牧師先生御夫妻が二度目に来て下さった日であります。 日本キリスト教団中目黒教会の武間(ブマ)謙太郎先生で、パンと葡萄酒を御用意下さり、震災の地の牧師に聖餐式の司式をして下さいと言われたのであります。

 

急いでそこにある茶腕に葡萄酒を注ぎパンをちぎって、4人で主の聖餐にあずかりました。 そして武間先生たちを見送って会堂に入った時、イエス・キリストが講壇のところに立たれて「この教会の復興はわたしがするのである」と古河治牧師に告げられたのであります。これで一切の不安は解消され、教会の復興に教会員一同進むことができました。 わたしにも主は御臨在下さり、「聖書を、神学を学べ」と、そして地震だサリンだとのめり込む私の前に衝撃を与えて下さいました。感謝。

 

1996年4月 西宮鳴尾浜の仮設住宅から

古河静子

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