「主イエスにこそ望みがある」
フィリピの信徒への手紙3:12-21
明治期のキリスト者、内村鑑三は青年期に多くの悩みを抱えていましたが、アメリカでの留学中に出会ったアーモスト大学の総長シーリーとのやり取りが彼の信仰に大きな影響を与えました。シーリーは、「君のしているのは、鉢に植えた植物の成長を確かめようとして抜いては眺めているようなものだ。どうして、それを神と日の光に委ねて、安心して君の成長を待たないのか。」と内村に教え、人間は不完全であり、キリストの十字架にこそ日々目を向けるべきだと伝えました。
今日の手紙で、パウロも「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、主によって与えられる賞を目指してひたすら走るのだ」と述べていますが、同時に自分が完全ではないことも認めています。彼は律法主義者たちからの非難や、かつて迫害者だった過去に苛まれることがありましたが、その都度、いつも「キリストの十字架」に希望を見出してきたのです。
私はアメリカ生活半ばで深刻な鬱を経験しました。苦しい日々が続いていたある時、カウンセリングによって過去の傷や今の苦しみと向き合っていると、十字架のイエス様の姿がありありと示され、「それを私に委ねなさい」という声を聞きました。そして、その頃から状況が改善していきました。
私は、少し物悲しく思えるこの秋の季節、当時の痛みを思い出しながら、内村鑑三が愛した秋の花「りんどう」とウィリアム・カレン・ブライアントの詩「紫りんどうに贈る」に思いを馳せ、天に向かって開花するりんどうの花に希望と励ましを受けています。
パウロは「私たちの本国は天にあります」と語り、自らの罪や弱さに苛まれた時でも、天に目を向け、十字架のイエス様が救い主としておられ、いつかは主によって完全な者とされるのだと力強く語っています。この不安や悩み多き世の中にあって時に批判の目にさらされたり、過去に縛られ、後ろ向きになることもありますが、礼拝を通して天に目を向け、変わらないイエス・キリストの愛に希望を置いて歩む者でありたいと願います。
伊丹教会牧師 山本 一