「『羊飼』-現代的意味-」 三浦 修牧師
マタイによる福音書18:12~14
ヨハネによる福音書10:11~16
中近東の牧畜民族や、その生活風土を通して「羊飼」という言葉がキリスト教界に広く定着していった背景には重要な意味があります。
聖書に「お前たちは、どう思うか、ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、その人は九十九匹を残しておいて迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれを見つけたら、迷わないでいた九十九匹よりも、その一匹を喜ぶだろう。そのように、これらの弱い者が一人でも滅びることは、お前達の天の父のお望みではない」とあります。(マタイ18:12~14)
羊は群れを成して生きている動物ですが、聖書の草案地、パレスチナ地方では、ハイエナ、狼等の野獣から、羊を守るために、番犬と羊飼の不眠不休の背後からの羊を守る支えがあるのです。羊は人間に毛皮と肉を提供してくれる存在ですから、一匹の羊を失うことは大損害です。しかし、砂漠地帯の独特の「昼は暑さの中に、夜は寒さの中に悩まされる気候」等々の総合的判断として、一匹をあきらめ、九十九匹を守ることの方が、普通の常識ではないでしょうか・・・。だが羊飼いは常識を捨てて「孤独と恐怖」の中にいた一匹を捜しに出掛けたのです。
最近、はやりの風邪のように、少年の家出や自殺が続いています。又、若年層の中にも殺しの論理が大人から降ろされて来ています。今日の教育の中に、家庭の中に、社会の中に心底からの暖かさの欠落を思う時、此の羊飼のように、ソロバン勘定を忘れた精神を取り戻さなければならないと思います。(ヨハネ10:11~14)
現代人たる私たちは羊飼ではない、雇い人的感覚に陥ってはいないでしょうか。私たち一人一人は、何らかの形で、迷える羊を託されている者ですから、迷える存在を求め、その命が還って来たら、互いに喜び合う出来事を取り戻しましょう。
牧師 : 三浦 修