街の電気屋さんをしていたという70代男性が、肝がん末期で入院となった。奥さんに聞くと、こまめな人で家の修理などもよくやっていたようだ。
末期であることも知っていて、入院時には腹痛や食欲不振、全身のだるさを訴えていた。痛み止めなどを工夫してみたが、思うほどの効果は得られていなかった。
入院翌々日の回診での会話である。その日も苦しげな表情で過ごしていた。
「入院してから、あまり眠れないし、食事も入らないで吐くようになってしまった。家に戻った方が住み慣れたところで楽に過ごせそうに思う」
「そうなんですか。折角入院してもらったのに、よくなりませんか。それはちょっと困りましたね。入院の時には、治療のことは素人にはわからないから、先生に任せる。もうケセラセラやと言ってましたけど、具合が悪くなってくると、そんな呑気なことも言っていられないのではないですか」
「やっぱり吐いて食べられないとね。体力が落ちるしなあ」
「そうですよね。体力がねぇ。でもね、医者の目からみると、これまでの経過や診察の結果を総合すると、食べるのは難しくなってきたんやなと自然と思えます。ケセラセラというのは、こういう食べられない状態も含まれていると思ったらどうですか」
意外な言葉が返ってきた。
「先生も大変やね、こういう患者の愚痴を聞いて回っていたら。私には絶対に無理や」
「エーッ、いったいどうしたんですか、急に私のことを気にかけてくれて。ありがとうございます。そりゃ、大変っていえば、そうですけどね。でもそんなに大変でもないです。こういうことができるのが私の持ち味ですよ。〇〇さんにも、私にはできなくても〇〇さんにはできることがありますから。皆、お互いさまですよ。本当のことを言うと、私には何にもできないんですよ。ごはんが食べられるようにしてあげようと思ってもね。で、そのことをわかってもらうのに苦心しているというわけです。〇〇さんのケセラセラというのはいい考え方だと思いますよ。自分でなんとかしようと思わずに、食べられる時、飲める時を待っていたら、自然と人生を全うできます」
三日後に、望み通り退院した。それから一週間後、自宅で永眠した。
奥様が、挨拶に病院を訪ねてくれた。奥様にはねぎらいの言葉をかけたが、本人の希望通りに最期を迎えたと安堵していた。その表情からは、〇〇さんと奥様との強い絆も感じた。
「先生も大変やね」という言葉で私のことを労ってくれた。患者の愚痴を聞いて回ることがホスピス医の仕事である。治らないということをわかっていても、実際に感じている苦しさを誰かにわかってもらいたいと患者は願う。愚痴の聞き役になることでも、苦しさは軽減される。その聞き役が偉い人であればあるほど効果はある。
我々クリスチャンは神様に愚痴をこぼしていけばいいのではないか。愚痴をこぼしながら教会生活を続けることから信仰が育っていく。聖書の言葉を理解するためには、信仰生活という長い人生の時間が必要だ。人生はいつまでも奥深く、わからないことばかりだけれども。
細井 順