80歳代男性で、胃がんで肝転移がみつかった患者さんである。大手企業に定年まで勤めていた。日本経済が好調だった時分には、肩で風を切っていたと自慢話をしてくれた。企業戦士としてかなりの人生経験があり、相手に合わせて話題をかえて、どの職種のスタッフとも楽しげに話していた。
ベッドの向かい側にあるコルクボードには一枚の写真が貼ってあった。A4サイズに引き伸ばされたご自身の写真で、Tシャツ姿ではあったが証明写真のように無背景でひとりだけ写っていた。
「あの写真はいつの頃ですか」
「三年前です。病院に抗がん剤治療を受けに行ったときに撮りました」
「三年前ですか。目つきが、今とは違って、鋭いですね」
「あの時は病気と闘うぞという望みがありましたから」
「今はもう望みがないというわけですね」
「今はもう何もできませんから。こうして横になっているだけで、動くこともできません」
「そうなんですね。あの三年前の自分と何を語り合っていますか」
「えっ?」
「あの頃はできなかったけれど、今はできるようになったというようなことはありませんか」
「むずかしいなぁ」
「あの頃は気づかなかったけれど、動けなくなって新たに気づいたこととか、何かありませんかね」
「そりゃね、女房や娘のありがたさとかね」
「そのことも、三年前の自分よりは、できるようになったことのひとつかもしれませんよ。そう思ったら、今は、自分の思うように動き回ることはできないかもしれませんが、まわりの人の気持ちを思うことができるようなったのだから、別の面では、できることが増えたのかもしれません。人間はそうして、何かをなくしてもそこにまた何かを増やして成熟していくみたいですよ」
「そういうように考えないとあかんということですか」
「肩で風を切って歩いて来た人なんやから、そのために苦境を何度も乗り越えてきたでしょう。少々のことではへこたれない〇〇さんだから、今の自分を昔の自分と比べて落ち込んでも、自分らしくないかもしれませんね」
いつの間に目頭が熱くなってきたのか、そっと涙を拭っていた。
ホスピスでは、人生の残り時間を平穏に過ごす人たちが多いが、何もできないからといって、その人生の日々に意味と責任がないわけではない。
不満足な一日であっても、生かされている限り、「自分らしくない」とへこんでしまうことなく、その時々に意味を見出し、責任を果たしていきたい。それが自分らしく、恥ずべきことなく人生を終えることにつながる。
細井順