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説教要約2024/6/23「主イエスと共に歩む道」

「主イエスと共に歩む道」

レビ記11:24~40

使徒言行録9:32~43

 

 使徒ペトロは病人を癒し、死人を生き返らせる奇跡を起こしました。彼はイエスが天に昇られた後も、かつて自分が目撃したイエスの公生涯の姿をなぞるようにしてついていったのです。そこには彼に宿る聖霊の助けがありました。

 

 私たちの信仰生活においても、聖書に書かれているイエスの歩んだ道を、聖霊の力によってなぞるように歩むことが大切です。その時に、私たちも共にいてくださるイエスの存在を、ペトロと同じように身近に感じることができることでしょう。共にいてくださるイエスは、いっしょに横に並んで歩んでくださるだけではありません。自分の人生の課題という重荷に押しつぶされそうになって、一歩も進めない私たちを背負うようにして歩んでくださる方なのです。

 

 何も持たないでこの世に生まれてきた私たちです。幼いときには周りの誰かに背負われ、保護されて生きてきました。しかし、成長するにつれてだんだんと背負われることはなくなり、今では誰かを背負うことができるようにもなりました。けれども、私たちはこの世に生きている限り、まだまだイエスに背負われて、安心して人生を歩むことが許されているお互いなのです。

 

 ところで、私たちが洗礼を受ける意味は、神と反対方向を向いている罪の状態から、悔い改めによって神の方へ向きを変え、イエスに従って生きることを皆に表明ところにあります。そうであるならば、罪のないイエスが、なぜバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのかが不思議です。

 そもそも神の恵みを受けるということを目に見える形で表わしたのが洗礼です。そして聖書はイエスが公生涯の初めに洗礼を受けたことを記しています。それはまるで、イエスが洗礼という神の恵みを受けることによって、はじめて十字架への道を歩み始めることが可能になったということを指し示しているようにも思えます。

 

 つまり、イエスの生涯の歩みをなぞるようについていく私たちも、クリスチャンとして自分の十字架を背負う人生を歩み始める時、まず洗礼という恵みを受ける必要があるということなのではないでしょうか。

牧師 : 宮本幸男

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