· 

説教要約2024/4/14「寂しさが喜びに変えられる」

「寂しさが喜びに変えられる」

イザヤ53:7~8

使徒言行録8:26~40

 

 神は私たちを様々な方法で導かれます。その導きの中で、私たちは様々な人と状況に出会います。その目的は、新しい出会いの中で、私たちの目の前に「喜びの道」が開かれていくためです。この箇所においても、神は伝道者フィリポを様々な方法で導かれ、エチオピア人の宦官を救いに導かれました。

 

 まず、復活のイエスが天使を通じてフィリポに命じたことは、伝道の実り多いサマリアの地から、エルサレムからガザに下る「寂しい道」へ行くことでした。この方向転換はフィリポにとって納得しにくいものだったことでしょう。けれども、たとえそこが行きたくない道であったとしても、信じて一歩踏み出して行った時に、そこにエチオピア人の宦官との素晴らしい出会いが用意されていました。

 

 このエチオピア宦官は大した身分でありましたが、宦官であるがゆえの劣等感にさいなまれ、ユダヤ教の神に救いを求めていたようです。彼がユダヤ教を信じ、エルサレム神殿に礼拝に来ていたのは、おそらく旧約聖書イザヤ書に書かれている宦官を励ます言葉にあこがれていたからでしょう。それはやがてキリストが現れた時に、すべての宦官に与えられる祝福の約束でした。

 

 この宦官とフィリポの寂しい道の上での出会いは聖霊の導きでした。さらに、宦官はフィリポが解き明かすイザヤ書の御言葉の導きによって、すでにキリストがこの世界に来られたこと、そしてキリストの十字架の死と復活の意味を知ることになるのです。宦官はこれまで人生の「寂しい道」を歩んでいましたが、イエス・キリストの福音を受け入れることによって、自分の人生に価値を見出し、「喜びの道」に入ることができました。

 

 神はあらかじめ全てを見通しておられて、私たちのために良いものを用意しておられます。そして、神の御手による導きに従う時に、用意されたすべての祝福を受けることが出来るのです。問題はその導きに私たちがどう応答するかです。その導きに正しく応答することができるように、いつも自分自身を聖書の御言葉によって整え、自分の前に導きが現れる準備をしておきましょう。

牧師 : 宮本幸男

HOME