正月早々石川県能登半島で大地震が発生し、多くの人が被災されましたことを覚え、心からお見舞い申し上げます。被害にあわれた方々へ一刻も早く支援が行き届きますよう、そして、復興が速やかに進んで行くようにお祈り申し上げます。
さて、私は毎年1月中旬になると新島襄(にいじまじょう)の生涯を思い出すのです。彼は幕末から明治の時代に活躍した日本の教育者です。後に同志社を創立しました。また、明治時代を駆け抜けたキリスト教伝道者の一人です。かつてNHK大河ドラマで「八重の桜」が放送されましたが、ヒロイン八重の夫でもありました。
話は幕末まで遡りますが、新島襄は1843年(天保14年)、安中藩の江戸屋敷で生を受け、幼名を七五三太(しめた)と言いました。彼は1864年、21才の時、国禁を犯し日本脱出を図りました。当時は幕末、鎖国の世の中です。見つかったら厳罰に処されます。しかし、彼は幸いにも、夜半、函館に停泊していたアメリカの商船に忍び込み、上海を経由してアメリカのボストンに渡ります。
ボストンでは不思議な邂逅がありました、地元の有力者であるハーディー一家から精神的、経済的な援助を受けることができたのです。そして、全寮制の高校へ進学します。受洗して、3年間アーマスト大学で理学を学び卒業し、更にアンドーヴァー神学校に進んで、ニューイングランド神学を学びました。神学校在学中には、岩倉遣外使節団に通訳兼秘書として招かれ、ヨーロッパ諸国の視察に同行し、欧米の教育制度など多くの知見を得ました。そしてボストンに戻り、アメリカンボード(会衆派)の宣教師の資格を取り、1874年に帰国します。襄は明治となった日本の国の近代化には、新しい世にリーダーになっていく人物の育成、教育が重要と考えました。そして、「キリスト教の精神に基づく、独立自尊の人間教育」を志したのです。
そして、1875年に当時京都府知事であった山本覚馬とともに京都寺町で同志社英学校を開校しました。翌年には妻となった八重も英学校の運営に関わります。襄は幾多の困難がある中、京都の地にキリスト教精神を基盤とした総合大学を創立しようと祈り続けました。彼が目指していたのは、欧米の伝統的な専門的学部を多く有する私立の総合大学でした。しかし、なかなか大学設立の認可を得ることはできず、志半ば、1890年1月23日、旅先の神奈川県大磯で天に召されたのです。大学設立認可を得たのはジョーの死後20年経ったあとのことでした。神に祈り続けたジョーの信仰は、遅れてやっと結実したのです。
ところで、新島襄は当時、教育者(同志社英学校の校長)として活動していましたが、宣教師として、キリスト教伝道にも熱心に取り組みました。京都に3つの教会を創立し、更に大学設立のため全国行脚も精力的に行いました。行った先々で講演会を開き伝道し募金を募ったのです。その集会先が拠点となり教会になっていきました。さながら使徒パウロの伝道旅行を思わせるようです。今でも新島襄の信仰にゆかりがある教会が全国各地で日曜礼拝を守っています。香櫨園教会も昨年創立60年を迎えましたが、辿っていけば新島襄の信仰がルーツにある教会です。
今年も命日の1月23日の早朝には、東山の若王寺山頂の同志社墓地で、創立者永眠の日祈祷会が行われることと思います。ここに眠る新島襄の信仰と志を忍び、祈りを捧げるとともに、今あることへの感謝を捧げたいと思います。
画像掲載元⇒Google map 函館市大町11