喉にできたがんが広がり、気管切開を受けていた70代の男性患者さんである。
鼻から首にかけての痛みが強くなったためにホスピスに入院してきた。
食事は通らなくなり、胃に直接通した管から栄養剤を注入していた。
治療への期待から、ある大学病院のセカンドオピニオン外来を受診する手筈が整えられていた。
気管切開のために発声することはできず、筆談かジェスチャーでやりとりした。
訪室すると、目線を合わせて、頷いてくれた。
「セカンドオピニオン外来受診の段取りも整ってきて、希望が湧いてきましたね」と問いかけてみた。
顔をしかめて大きく首を横に振った。身振り手振りで、栄養剤が逆流して口の中が苦くなると訴えた。
「そうですか、思ったようには栄養が摂れていないのですね」
頷きあり。
「体の痛みやだるさはありますか」
頷きあり。
「体も心も参っている状態ですね」
頷きあり。
「私たちに、やってもらいたいなと思っていることはありますか」
しばらく考えてから、筆談で返事をくれた
「セカンドオピニオンがダメと言われたら、殺してほしい」
「セカンドオピニオンがダメだったら、病気を治すことは無理ということですからね。生きていても仕方ないと思ってしまいますね。死んだ方がいいと…」
頷きあり。
少し間を置いて私から問いかけてみた。
「そうですよね。もし、セカンドオピニオンがダメだったら、それからは、恥ずかしくなく死ぬためにはどうしたらいいかを考えてみたらどうでしょうか。自分のために、家族のために、いままで支えてくれた人たちのために」
少し間があって、筆談で、
「それができないので、もういいやと思っている」
この方の家族関係はあまり良い方ではなかった。奥様も子どもさんたちも仕事が忙しいということで面会も少なかった。寂しげに過ごす時間が多かった。
「もう十分に苦しんできた。それを誰にもわかってもらえない。もうそろそろ勘弁してくれと思うのですね」
頷きあり。
「苦しみは当事者でないとわからないですよね。この苦しみは何の意味があるのかと考えてしまいますよね。何のためにってね。ところで、生きがいじゃなくて、死にがいという言葉もありますよ。死にがいを持って堂々と死ねたらいいですよね」
しばらく無言で目を瞑っていた。
「人生を全うするために、私たちはこれからもおつきあいしますよ」
こちらに向き直り、目線を合わせて右手で「ありがとう」と合図をしているようであった。
声も出せず、意思疎通もむずかしい。鼻の奥から首にかけて広がったがんで、四六時中痛みに悩ませられる。感覚器官が多い顔面は神経も鋭敏で、麻薬を使っても、痛みは多少なりとも残る。そういう状況でも、生きなければならない。
我々にはおつきあいをするしかない。孤独感が薄らいだとき、堂々と生き切る力が湧いてくる。
クリスマス、イエス様はわたしたちにおつきあいしてくださっている。
細井 順