「月に行ったらよろしいやん」
60代後半の男性で、前立腺がんと腰の骨に転移があった。一年ほど、痛みのために通院していた。現役で仕事も続け、スポーツマンで心身共に鍛えられていた。座右の銘は「勇往邁進」で、何となく気心も知れていた。
声がかすれてしまい、食事でむせるようになり入院となった。一週間経って少し症状は改善していた。
検査をしたところ、頭部にも新しい転移が見つかり、そのために神経がマヒしたための症状とわかった。放射線治療を提案したところ、「ああよかった。これで希望が持てる」と、かすれ声ではあったが表情はなごんだ。
その翌日のことである。
病室に出向くと浮かぬ表情だった。
「昨日は新たな治療のことで嬉しそうな表情でしたが、今日は元気がないですね」
「今日は、首から左の腕にかけて痛みがでてきました。食事もちょっと通りにくくなりました。何でこうなるのでしょうか。昨日は妻とあと10年はがんばろうと約束したところです」
「新しい症状が出てきたので、心配になってちょっと落ち込んでしまったのですね。昨日は、これからや!とやる気になったばかりなのにね。まあね。人生だから、こんなものじゃないでしょうか。いいことばかりが続くわけでもないし、たいていのことはよかったり、悪かったりの繰り返しですから」
「仕事ばかりしてきたもので、妻を旅行に連れて行ったこともないんですよ。妻は海外旅行もしたことがない。北海道や沖縄にも行ったことがないんですよ」
「そうですか。ほんなら、一回は連れていかないとアキマセンね」
「結婚してからずっと、よく支えてくれた妻だから、何とか、せめて北海道くらいは連れていきたいんですわ」と涙を流した。
「この際、北海道なんて近場じゃなくて、月に行ったらよろしいやん。いままでの奥さんの愛情に報いようと思ったら、月に行ってもまだ足らんかもしれませんよ」
「そうかもしれんけどねー。月ですか。ちょっと高いのとちゃいますか」
「これから10年も経つ間に、だいぶ安くなって、北海道に行くくらいの料金で行けるようになりますよ」
「ウーン。それで、先生のところは、奥さんは元気ですか」
「エエ、元気にしています。私も随分と助けられています」
「そしたら、先生のところとうちで、二組の夫婦四人で月に行きませんか」
「そうやね。それはいい考えですね。是非、そうしましょう。きっと楽しくなりますわ」
話しは盛り上がった。お互い、賢い妻に話したら「アホなことを」と一笑に付されるだけではある。しかし、ひととき、つらさも忘れて夢の世界に浸った。
どんなときでも目標や願いを持つことは大切なことである。それが現実のものとならなくても、共通の話題は孤独感を減らして、死を意識したときの重苦しさを忘れさせる。話しは大きいほどユーモアも生まれる。互いの信頼関係はこれからも続く。
細井順