「つまずくわたしに」
創世記4:1~24
ルカ福音書17:1~4
聖書の御言葉において、イエス様は私たちに難しいことをお命じになるものだと思います。ですがこの難しいと思われる命令、もしかして私たち自身が人にして欲しいことではないのだろうか。次のように言い換えることができるのではないでしょうか?
私たちが、罪を犯しているのを見たら、注意してください。
私たちが、罪を認め悔い改め、謝ったら赦してください。
私たちが、何度罪を犯したとしても、その度にゆるしてください。
私たちが、自分に、そうして欲しいと願うことをイエス様が汲んでくれているのではないだろうか。 他にイエス様が命じている所でも考えてみます。 「常に喜んでいなさい」という聖書が命じる言葉は、普通に考えれば、日々、辛いこと、嫌なこともあり、難しいことです。 ですが、これも私たちが自分の大切に思う人に対して望むことではないでしょうか?
今までの厳しいと思っていた聖書の命令。この命令は、自身の中にある、相手にこうして欲しいと願っていることを告げているようです。
お前はこれを人に望んでいるのだろう?であれば、まずあなたがしなさい。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイの福音書第7章12節)そう言っているように感じます。人にして貰いたいことを、まず自分がする。今日の聖書箇所では、罪を赦されたいなら、人の罪をまず赦すこと。主の祈りにおいて言うように。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」人間は誰かを赦すことができるのか。それぞれ色々な事情がある中で、全てをゆるすことができるのか。
イエス様が初めにつまずきはさけられないと仰っています。イエス様は私たちの弱さを御存じです。私たちの代わりにイエス様は十字架にかかり、全てを贖ってくださったのですから。イエス様も、人間という「つまずく」存在には難しいことだと分かって下さっています。また「何時も喜んでいなさい」というのは、私が愛する誰かに、そうあって欲しいという願いであると同時に、イエス様から、私たちへの願いです。聖書の言葉をイエス様の厳しく、難しい命令ではなく、イエス様の私たちに喜んでいて欲しいという願いからの言葉だったのだと受け止めたいと思います。
坂本子龍神学生