「大人には分からん」
創世記45:3~8
ヨハネ21:15~19
「ヨハネの子、シモン。私を愛しているか。」この場面は復活のイエス様とペトロとの再会の場面ですが、ペトロの答えははっきりとはしません。「はい、私はあなたを愛しています」とは答えません。「それは、あなたがご存じです」と返すのです。なぜ、「はい」と答えないのでしょうか。
この問答をイエス様とペトロは3回も繰り返します。ペトロの頭には、ある記憶が駆け巡っていたのかもしれません。イエス様を「知らない」といって裏切ってしまった時のことが。自分の「愛」は、死をも恐れない愛ではなく、わが身可愛さの上にある愛であったという後悔。そうした後ろめたさが彼の口から「愛」を封じてしまっていたのかもしれません。
ペトロと同じように、私たちの「愛」もまた完全ではありません。愛について尋ねられると、「はい」か「いいえ」よりも、「頑張ってはいます。」「気持ちはないことはないですが・・・」とうやむやにしてしまします。
はっきりと答えることが出来ないペトロにイエス様は3回目も同じ問いをされます。イエス様の3度の問いの内、1回目と2回目に使われている「愛」は「アガパオ」という「アガペー」に由来する言葉です。神から出る限りのない愛、深い慈愛を意味します。
しかし、3度目の「愛しているか」に使われている「愛」は、「フィリア」という言葉です。「フィリア」は人間的な友愛を意味します。人の愛、それは欠けがあって完全にはなりきれない愛。神様の愛「アガペー」のように完全で揺るぎないものではない。けれど、そんな人間的な愛でもいい、その愛で「私を愛しているか」と主イエスは問われるのです。
これはイエス様がペトロや人間たちに、あきらめを表したという訳ではありません。主イエスは「私の羊の世話をしなさい、私の羊を飼いなさい」と言われ、またペトロがどのように死を迎えるかも教えます。
これはペトロが主イエスの良い知らせを伝えることを委ねられたということであり、その生涯の最期までキリストに繋がれた人として生きていくという約束でもあると思うのです。「私を否定したあなたなど知らない、もう弟子ではない」とは言われないのです。あなたの愛が限りのある人の愛であると分かっている。それでも私に繋がっていなさい。と手を差し出されるのです。
赤松真希