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説教要約23/7/30「そっと心に蒔かれる種」

「そっと心に蒔かれる種」 

ヨシュア1:1~9

使徒3:22~26 

 

 ペトロがこの説教の中で語っている「神が立てたご自分の僕」、「ユダヤ人のもとに遣わされた僕」とは、十字架の上で死に、墓に葬られ、しかし三日目に復活し、今も生きておられるイエス・キリストのことです。

  そのイエスが遣わされたのは、すべての民族が、大昔、神がアブラハムという旧約聖書の人物に約束した祝福にあずからせるためでした。そしてその祝福とは、エデンの園という楽園で、人間が失った神との信頼関係を回復することです。

 

 僕として来られたイエスは、今も聖書の御言葉を読む人の心の中に、そっと御言葉による祝福の種を蒔いていこうとされています。そして、その御言葉が、その人の心にしっかりと根付き、育っていくならば、その時から神の祝福を受ける人生が始まります。

 何故ならば、与えられた御言葉を信じて心に受け入れたなら、私たち一人ひとりが受ける祝福の種が、豊かな実を結ぼうと働き始めるからです。大切なことは、心の中にいただいた御言葉の種は、「必ず成長し、いつか実を結ぶ」という実りの祝福を信じることです。

 それがないと私たちは日々の生活の中に、思うようにいかない現実しか見えて来なくなります。そして、「何でこんなことが自分に起こるのか」と思えて負けてしまうのです。だから福音書の中のイエスは、私たちに30倍、60倍、100倍の実りの話して励まそうとされています。

 

 それでは何故、聖書の御言葉を聞いて受け入れることが祝福につながるのでしょうか。それは、自分の姿が御言葉の「鏡」に映し出されるからです。その鏡の中の自分の姿を見つめることによって、自己中心の生き方をしている自分の心に気づかされるのです。その罪を認め、悔い改める時に、神との信頼関係が回復され、神の祝福が始まっていきます。

 その祝福は私たち一人ひとりで終わりません。自分の家族や周りの人々、さらに住んでいる地域の人々への祝福へと広がっていくことでしょう。それは、あのモーセ、サムエル、アブラハムという旧約聖書の重要人物と同様に、祝福を受けた者は誰であっても、「神の全民族を祝福する計画」に用いられる一人に入れられていくからなのです。

宮本幸男

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