「慰めの地へのナビゲーション」
イザヤ51:1~11
使徒3:17~21
この世界に生きる一人ひとりの人生に神の目的があります。たとえ、その人がそこに至るための道を間違えることがあっても、神はそこに立ち帰らせるチャンスを与えます。神はその人に常に修正を呼びかけ、計画通り目的地に導き、素晴らしい祝福を与えようとされているのです。
それはまるで私たちが、車やスマホで利用している画像や音声によるナビのようです。私たちを導いてくれるのは、聖書の御言葉であり、聖霊の御声です。それらに導かれて、私たちは自分だけに与えられた人生の道を進むのです。
しかし、私たちはいつも神のナビの指示通りに進むとは限りません。何か他のことを考えているうちに、うっかり、ナビの指示を見逃したり、聞き漏らしたりします。また、今までの自分の経験から判断したルートを選択することもあります。それは私たちが自己中心的で、自分勝手であることが理由とも思えます。しかし、よくよく考えてみると、私たちには自分で考え、選ぶことができる自由意志が与えられているのです。それも神から与えられている祝福でしょう。
そして、そうやって一時的にナビの指示とは違う道を進むことがあっても、神は元のルートに戻させ、最終的に目的地に着くように導かれます。神は私たちがどんなに道を間違っても、根気よく、熱心に、目的地に至る元の道に戻そうとされるのです。
その目的地にあるのは、その人が癒され、見事に救われるという究極の計画です。神は私たちの罪や、過ちや、失敗でさえも用いてくださって目的地へと導びこうとされます。たとえ人生を無駄にした時間があったかに思えても、ナビに従おうと生きるならば、人生の終わりには必ず目的地に到着するのです。そしてその時が慰めの時、救いの時です。
その時は遠い将来のように思えるかもしれません。しかし、私たちの今の生活の中においても「慰めの時」は起こるのです。それはやがて来る究極の「慰めの時」と比べるならば、とても完全完璧であるとは言えません。けれども、実はこの慰めを、神は私たちに一瞬でも見せてくだっているのです。聖書の御言葉や祈りを通して、慰めの御言葉と御声を聞き、今の慰めと救いに確信が持てたならば、誰でもやがてくる慰めの地、救いの地に一瞬でもいることになるのです。
宮本幸男