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聖霊降臨節に思う

 

 今年も聖霊降臨節を迎えた。私の受洗記念日は、1964年5月17日で、その年のペンテコステ礼拝だった。今年で受洗59周年になった。今年は何故か信仰生活を振り返る機会となった。まずは、ペテロの涙にふれたときのことを話したい。

 

 当時は大学生だったが、倫理学、ラテン語を教えていた教養部の先生が主宰していた聖書研究会に通い、その先生の聖書読解に聞き入っていた。毎回3-4人の学生が集っていた。その時はマルコによる福音書を読んでいたのだが、ペテロがイエスのことを三度拒んだあとに鶏が鳴いたとあった。そして、ペテロはイエスの言葉を思い出して泣いたとある。よく知っていた箇所だったが、その日は、その先生の語り口から、その場面の情景が心の中にあざやかに広がり、ペテロの姿は私自身の姿だと気づかされた。今までに、自分はどれほどイエスを知らないと拒み続け、裏切ってきたことだろう。その日は、体から力が抜け、地面にへたり込むような感覚で一日を過ごした。すでに受洗後10年ほど経っていた。

 

 聖書には、ペテロが涙を流したあと、イエスは十字架にかけられて死に、三日目に甦り、それから40日経って天にあげられ、さらに10日経った50日目に聖霊降臨があったと書かれている。

私の場合、受洗してイエスに従う決心をしてから、自分のことがわかるまでに10年を要した。次におこる聖霊降臨はいつのことだったのだろうか。

人生とは何か、自分は何をなすべきか、これは人間の大きなテーマである。私もそのことを繰り返し考えてきた。聖書を読んだ。それだけでなく、ソクラテスからハイデガーまで、東洋哲学について、禅について等々、自分なりに勉強して、ある程度は理解できた。しかし、読めば読むほどにまた新たな疑問が湧く。

 

 ある日、ふと思った。人間が創作した書物をいくら読んだって最終的結論には達しないのではないか。

そう気づくやいなや、聖書のことばが思い浮かんだ。

「神を畏れ、その戒めを守れ」(コヘレトの言葉 12:13)

人間のなすべきことはこれに尽きることに思い至って、人生の疑問がことごとく解消した。自分は如何に生きるべきかと悩むことは何もない。ただひとつ、神を畏れ、その戒めを守ればいい。ただそれだけなのだ。

その結論に至ったのは、昨年秋だった。それが私にとっての聖霊降臨である。

 

 聖書には聖霊降臨はイエスの復活から50日とあったが、私の場合は50年の歳月を要した。この間、神は見えざる御手で私を確かな方向へと導いてくれていた。

細井 順

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