· 

説教要約23/5/7「喜ぶために、つながりませんか」

「喜ぶために、つながりませんか」

申命記7:6~11

ヨハネ15:12~17

 

 生きていると、苦しんだり悲しんだり、試練に遭って絶望の中を生きることが誰にでもあります。あまりにもそのような体験を多く積み重ねてきた人は、苦しむことこそが人生だと思っているかも知れません。そうでなくても私たちは、喜ぶことを人生の一部分でしかないと思い込んでいるところがあります。

 

 しかしイエスの中には永遠に溢れ続ける喜びがあります。イエスご自身が喜びそのものの存在なのです。その存在につながり、イエスの与える「互いに愛し合いなさい」との掟を守る時に、私たち一人ひとりの全存在から喜びが溢れ始めます。

 

 このときイエスは、ご自分が経験している特別な喜びを弟子たちに与えようとしました。イエスの経験していた喜びは、父なる神から自分に与えられた使命に従順に生きることでした。つまりイエスの喜びとは、「父なる神を喜ばせたい」というところに生まれてくる究極の喜びだったのです。イエスが十字架の上で苦しみを耐え続けることができたのは、その喜びを持っていたからでした。本当の喜びはどんな試練にも耐える力を与えるのです。

 

 現代に生きる私たちも、父なる神を喜ばすことに、またイエスを喜ばすことに生きることに召されています。その為にイエスは、私たち一人ひとりの魂をとらえ、引き上げてくださって、ご自分のものとしてくださいます。決して私たちがキリスト教を選ぶのではありません。絶望の中にいる弱い私たちを、イエスの方からこの世から切り離すようにして選んでくださるのです。

 

 実に神を喜ばせ、私たちも喜びに溢れることは、私たちが互いに愛し合うということから生まれます。それは私たちの日常生活の中でもできる自己犠牲の愛です。たとえば、大切な時間を割いて苦しんでいる人の話に耳を傾け、励ましの言葉や祈りによって支えてあげること、また自分の何かを我慢して相手の為に仕えることです。けれども、それですらも私たちにはなかなかできません。ただ聖霊の助けによってのみ、その愛は可能となっていくのです。

宮本幸男

HOME