「苦しみを喜びに変える為に」
イザヤ56:1~8
ルカ23:32~49
イエスが十字架につけられたとき、二人の犯罪人が一緒に十字架につけられました。その内の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしります。この犯罪人は、この期に及んでも自分の罪を認めることができませんでした。しかしもう一人の犯罪人は、それをたしなめました。彼の方は十字架刑に処せられる土壇場になって、自分の罪を素直に認めることができたのです。
それはきっとイエスという存在を目の当たりにしたからでしょう。不当な裁判で陥れられ、十字架にかけられ、ののしられても、「父よ、彼らをお赦しください」とイエスは祈られたのです。その姿に大いなる存在を感じ、まるで神の御前に出させていただいているような気持ちで、彼は自分のこれまでの人生を見つめ直したのだと思います。実に聖書の中のイエスの御言葉にも、私たちに自分を見つめ直させ、悔い改めさせる力があります。
そして彼は改めて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。今さら自分の罪がはっきりと分かったとしても、もはや償うこともできません。ただ自分のような人間がいたことを、イエスに思い出してもらうだけで満足したかのようです。
ところが、イエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との思いもしなかった言葉がかけられます。この時に彼は自分のような人間にも「救い」が与えられたことを感謝したことでしょう。その出来事が起こったのは、父なる神が私たちの罪のために、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架の上で犠牲にしてくださって、私たちを無条件に赦そうとされたからでした。
その無条件の十字架の救いは、父なる神が計画し、イエスが実行されました。そして私たちにおいても聖霊が救いを完成させます。ここに私たちに対する神の深い愛があります。その恵みに気づいた日が、誰にとっても救いの日になります。それはそれまでの苦しみが大きな喜びに変わる時なのです。
宮本幸男