「どうせ私なんかの法則」
申命記6:10~19
ルカ4:1~13
イエスは活動を始めるにあたって、一人で荒れ野に出て行かれ、悪魔から三つの誘惑をお受けになりました。その誘惑に打ち勝ち、神の恵みはどんな悪の力にも勝利するということを証明してくださったのです。
悪魔は私たちの劣等感をあおって、この世の富や権力で心を満たせようと誘惑してきます。さらには、本当に神が愛してくれているかどうかを試させようとします。しかし、もうすでに私たちは何一つ欠けていない神の子として、神ご自身に認められている存在なのです。その恵みに信頼することなく、自分の目に見える基準で「どうせ私なんか」と、愚かにも私たちはつぶやき続けていることがあります。それでは本当の幸福に満たされることはありません。
けれども、そのような私たちを神は恵みによって選ばれました。ですから大切なことは、信仰と誇りを持って、神が与えたもう自分の人生を引き受けて生きることです。自分の中にどんな弱い部分があろうとも、神に認められている「私である」ことを堂々とさらけだして生きるのです。
イエスは逮捕され、不当な裁判にかけられ、十字架につけられる受難の中で、一番弱い自分を堂々とさらけ出しました。だからこそイエスは神の子として輝くことができました。「もし神から選ばれた者なら自分を救うがよい」と、ユダヤの議員に十字架から降りるように誘惑されても、イエスは十字架から降りて来られませんでした。荒れ野での誘惑の勝利を、イエスはこの究極の場においても貫かれたのです。
そのように誰であっても「私が私である」ことは、神にとっても自分にとっても最高の喜びです。それを確信した時、イエス・キリストの十字架の勝利が、この世界に現実として現れていきます。どんな悪の力であろうとも、神の子である私たちの前に後ずさりして倒れていくだけなのです。
宮本幸男