「イエスは主である」
1コリント12:1~3
使徒パウロは、『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』と語ります。私たち日本人がこの『イエスは主である』という言葉を読むときに、「イエスは自分の従うべきご主人さまだ」という認識に留まっていることがあります。しかし、それ以上の意味がここにはあります。
つまり、ここで「イエスは主である」と言うときには、イエスは、旧約聖書の時代から啓示されている「ヤハウェ」という聖なる名前の神であるということです。また、その神であるイエスが、人としてこの世界に来てくださり、十字架にかかり、墓に葬られ、3日目に甦ったことのすべてが、この告白に込められています。
そのように信じさせてくれるのは、霊的な賜物である「聖霊」です。しかし、私たちはなにか特別な体験をしないと、聖霊は与えられていない、あるいは神秘的な体験こそが、聖霊をいただいている「しるし」であるように誤解していることがあります。その誤解は、神の豊かな恵みを信じられていない心から来ています。
聖書が語ることは、そのような体験は少しも必要ないということです。その人がごく自然に、「イエスは主である」と言えるようになっているならば、もうすでに聖霊を受けているということです。それを知らないと、私たちは自分には霊的な賜物が与えられていない、与えられていても不十分だと、不平不満を抱いたまま生きることになってしまいます。
神が私たちに与えてくださる救いの恵みは、複雑ではなく実に単純です。私たちは誰でも、神に自分を明け渡すとによって聖霊に満たされることができます。それによって、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、「イエスは主である」と告白し、救いの恵みの中に生かされていくのです。
宮本幸男