民数記9:15~23
ルカ4:15~30
イエスの生まれ故郷のナザレの人々は、最初はイエスのことを誇りとし、その恵み深い言葉に心を打たれていました。しかし、そのうちイエスの言葉と存在は、人々の持っていた常識の許容範囲を超えていきました。それが人々の心の中に不安を生み、イエスの存在を気に入らなくさせ、崖から突き落とそうとする行動にまで駆り立てたのです。
私たちも他人に対しては、「気に入るか、気に入らないか」という判断基準を持って生きています。相手の言動が自分の持っている常識を超えることによって、気に入らなくなることがあります。しかし勝手にも私たちは、自分がどうであろうとも、誰にでも気に入られることを願うのです。この「気に入るか、気に入らないか」の中で起こる不安が、結果的に憤りを生み出します。もしも、私たちがそのようなしがらみから解放されるなら、もっと自由な生き方ができるでしょう。
この時のイエスは、ナザレの人々に気に入られる説教をすることはできたはずです。しかし、イエスは決して人々に気に入られようとはしませんでした。この後も人々に気に入られるのではなくて、父なる神に気に入られる生き方を貫かれました。その生き方がユダヤの宗教指導者たちの心の中に憤りを起こし、殺意を生み続けていきます。しかし、イエスはその中を見事に通り抜けていかれました。幾度となく起こるピンチの中、父なる神が不思議なようにして、危機を通り抜けさせたのです。
しかし、やがて定められた時が来たときに、イエスはついに憤りにつかまり、十字架にかけられて殺されます。けれども、なおも神はイエスをその死から復活させ、死という最大の危機を通り抜けさせました。その神は私たちに対しても同じ恵みを与えようとしておられます。私たちを愛してくださっている神は、それぞれの人生の危機を、必ず通り抜けられるように導いておられるのです。
宮本幸男