イザヤ25:1~9
黙示録7:2~4 9~12
「嵐の中にある深い慰め」
このヨハネ黙示録は「預言の書」と呼ばれてきました。しかし、この黙示録に書かれていることを、「これからこの世界に起こる出来事が具体的に予言されている」という考え方に縛られて読んでしまうと、神がせっかく私たちに与えてくださっている愛のメッセージが見えなくなってしまいます。そのような読み方は、この黙示録の「愛の言葉」を「裁きの言葉」に変えてしまいます。
なぜならば、この世界を創造した唯一の神は、これから起こることを、ちらっと見させてくださることがあるかもしれませんが、全部を見せてくださらない神だからです。もしも私たちが、自分の人生これから何が起こるのか、全部分かっているとしたら安心できるでしょうか。いや、逆に私たちは安心できなくなって平常心を失ってしまいます。それを知っておられる神は、「どんなことが起こっても、ただ私に信頼していなさい、必ずあなたを救うから」と、必要なことだけを語ってくださる神なのです。
この黙示録は、実に恐ろしい光景が連続して書かれています。神は嵐のような厳しい裁きを説いて、私たちを脅かしているようにさえ思えます。しかしこの7章には深い慰めが書かれています。まるで私たちの人生の嵐がいかに激しくとも、神は慰めの場所をちゃんと用意してくださっているかのようです。人生の嵐を耐えて歩むことができるようにと、神は愛する私たちに、ひと息つけるオアシスを用意してくださっているのです。
そのような意味では、毎週日曜日に教会で開かれている礼拝という場所は、嵐の中にあって生きる私たちにとってオアシスのような場所です。また礼拝だけではなく、私たちはいつでもこの場所に入れば神の守りを感じることができます。人と人との暖かい交わりの中でホッと安心することもできるのです。
さらに、この場所は私たちに、たとえ死という人生最大の嵐が来たとしても、「大丈夫なんだ」という安心を与えます。すべての人はこのオアシスのような場所に、神によって招かれ続けているのです。
宮本幸男