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説教要約22/8/21「お互いが下に立つ」

 イザヤ54:1~8

エフェソ5:21~6:4

「お互いが下に立つ」

 

 クリスチャンとしての生活をする中で変わっていくものがあります。それは以前と比べて人に仕える者となっていくということです。そして、聖書のこの箇所で「仕える」と訳されているギリシャ語は、「下に立つ」という意味の言葉が使われています。聖書はお互いが下に立って仕え合うことを勧めているのです。

 

また、仕えるということは「相手を支える」ことだと言う人もいます。その人は「他者を思いやり、困難を抱える人々に寄り添うこと」を支えると言うのです。それは相手がどうであったにせよ、その人が支えられ、生きていけるようにするということです。

 

 私たちはそう聞いて、お互いに下に立つことや、相手を支えることが素晴らしいと思い、一歩踏み出してやってみようとします。しかし、「相手がどうであったにしても」と言われると、私たちはその一歩踏み出すことをためらってしまいます。無条件に私たちを愛されたキリストの姿を思い出せたとしても、私たちは相手の下に立って仕えたり、キリストと同じように相手のために自分を捨てることなど、なかなかできない者なのです。

 

けれども、少し考え方を変えて自分を捨てるのではなく、たとえほんのわずかでも、「自分を削って相手に差し出す」というように考えでみたらどうでしょうか。愛は捨てるというよりも、相手に与えることです。また神も自分で自分を捨てることができない、私たちの弱さを知っておられます。

 

 イエスは持っている物や時間を、次々と削り、もう何も削るものがなくなったとき、最期にご自分の命を削ってくださいました。ですから、人間関係に悩んだときにはキリストにならって、わずかでも自分の何を削れるかということを考えてみれば、問題解決の糸口が見つかるのではないでしょうか。なかなか思うようにいかなくて苦しむこともあるかもしれませんが、いつか削って与えることが喜びに変わるときが来ます。それは愛なる神がご自分に似せて、あなたという人間をお造りになられているからです。

 宮本幸男

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