「イザヤ50:4~7」
「マルコ福音書 14:32~42」
「まず祈りましょう」
「最期の晩餐」と呼ばれる食事を終え、イエスと弟子たちはゲッセマネと呼ばれた場所に移動しました。この後イエスはすべての弟子たちに裏切られ、ついに捕らえられ,不当な裁判にかけられて、十字架の刑に処せられていきます。そのような危険が迫っていることをイエスはひしひしと感じておられました。ですからイエスはゲッセマネという場所で、ひどく恐れもだえるように父なる神に祈ったのです。
ところで、そもそも祈りとはなんでしょうか。私たちはなんのために祈るのでしょうか。イエスは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と言っています。ですから、祈るのは私たちが誘惑に陥らないためなのかもしれません。
最大の誘惑は、神を信頼させず、「もう駄目だ、こんなことをして何の意味があるんだろう」と、人生を諦めさせようとさせる誘惑です。それと戦うには祈りしかありません。けれども苦しみの時、それさえ祈れないことがあるのです。その原因は、神を信頼できずに祈っても無駄だと思ってしまっているからです。
人生とはある意味において絶えず誘惑の時です。苦しみの中にあってもそれを踏み台として、神が自分に素晴らしい人生を用意していることを信じるのか、それともあきらめの誘惑に陥るのかが人生の分かれ道です。もしもあなたが素晴らしい人生を望むなら、誘惑に陥らないように祈り始めましょう。神を信じて期待して祈るところに必ず神が働きます。しかし祈らなければそのまま何もなく、たとえ願いがあっても幻のままで終わってしまうのです。
なにも心配せず、なにも用意せず、ただ神を信じるだけ。そもそも私たちが祈って願う前に、神はあなたの願いを全部知っていてくださっています。ですから何を祈っていいのか分からない時には神に信頼して、「全部おまかせします」と祈っても良いのです。あなたを愛している神はあなたに祝福を与えたくて、あなたが祈り始めるのを待っておられます。
宮本幸男