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説教要旨22/3/20「新しいこと」

イザヤ書 48:6b~11

マルコ福音書 8:27~33

「新しいこと」

 

 この題は、「救い主が死をもってすべての人を救う」ことに尽きるのではないか。

今も戦争が起きている。偉い人は戦わず兵士が戦い、勝利は偉い人の手柄となる。これまでずっとそうであったし、これからも偉い人たちは安全な後ろから声を出して命令し、誰かが戦うのである。そんな当り前を打ち壊す出来事が十字架なのだ。かつて起きたことがなく、だれもが知らず、神のなさりようを見るしかないことが起こる。神が人々を贖い赦しを与えるために、神自らが人となり十字架を背負い、死んで復活する。

さてそれを受けて新約を読むと、人々の言葉もペトロの言葉も、旧約の言う新しいことではなく、これまであったものをイェスに当てはめているだけのようだ。それは、イェスをメシアと告白したペトロが、すぐさまサタン!と罵倒されていることからもわかる。

そもそも何故イェスは人々がイェスをどう呼んでいるかを知りたかったのだろう。真面目な質問だったのか、軽い冗談みたいなものだったのだろうか。私の想像では、軽い冗談みたいな質問だったと考える。預言者で~す。とかエリヤって言ってま~す。じゃぁあんたたちはどういうの?それに対してペトロがメシアで~す、と返してしまった。ピンポイントを打ち抜いてしまったのだろう。これまでの聖書は、ペトロの信仰告白として描いてきたが、「メシア」をどう訳すのかによる。「救い主」と訳すのか「王」と訳すのかには、非常に大きな違いがある。おそらくペトロは「王」の意味を使ったのであろう。それまで一緒に笑っていたイェスが急に真面目な顔になって言い出す。「わたしは人々に排斥されて殺され、三日後によみがえる」と。さっきまで笑っていた弟子たちが慌てだす。「イェス様、そんなこと言うたらあかんわ。」とペトロがいさめると「サタンよ、引き下がれ!」と怒鳴りだすイェスといったところか。

“サタン”は関西で言う“バカモン!”という最大級の罵倒くらいだろう。「神のことを思わず、人間のことを思っている」これは実際その通りだと思う。ペトロが悪いわけではないと弁護しておく。誰だって神の知恵にたどり着くなどできないのだから、想像力を目いっぱい働かせても、あなたは「王」ですとの告白までだ。その中身は、現状を打破する革命的な王ですが精一杯のところだろう。

 ペトロの告白に対して返されたイェスの言葉は、ペトロだけでなく弟子たち全員を驚かせた。王様になってローマから解放してくれる。俺たちはその王の直参だというのが、イェスの魅力に惹かれて一緒にいた彼らの本音だったのだろう。

 そのような人の思いは、神によって打ち砕かれるとイザヤは述べている。人を赦すのも神自身の栄光を表すためというのが、イザヤ的な考え方のようである。そしてその栄光は、神がすべての人を慈しんでおられるところからくるのである。

森 哲

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