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説教要旨22/3/13「見忘れたとは、言わせねぇ」

エレミヤ書 2:10~13

マルコ福音書 3:20~27

「見忘れたとは、言わせねぇ」

 

昨日、昨年12月に葬儀をした方の百箇日の記念会をさせていただいた。賛美歌に21-575「球根の中には」を選んでおいた。ちょっと難しいかなぁとも思っていたのだが、驚くことに保育園に行っている二人のお孫さんたちが歌いだした。驚いて聞くと通っているキリスト教系の保育園の3月の歌だったそうだ。神様のもとで、おばあ様も喜んで聞かれたことだろう。私が難しく考えるよりも神のなさりようの方が、はるかに上をいっていたということだ。お前を遣わしたのはこの私だと言われた気分で、喜びながら帰ってきた。

さて、今日の説教題は時代劇「遠山の金さん」のセリフをもじったものだ。しらを切る悪人たちに片肌脱いでの決め台詞である。エレミヤが人々に語るのもこのことだ。バビロンに連れていかれて神などいるものかと、バビロンの様々な神に帰依していく人々に向かっての言葉である。戦争の勝ち負けは、天上界の神々の争いの結果が地上に投影されるものだと考えられていたと先週説明した。それならイスラエルの神はバビロンの神々に敗れたのである。そう考えるのが普通であって、イスラエルの神が人々と共にバビロンに来られたというような考えにはならないのである。ところがエレミヤは、人々に対してお前たちが裏切り忘れた神は唯一の方であり、他の神々と取り換えのきくような神ではないと告げる。

そんな無茶なと思うが、歴史はイスラエルの神が、捕囚からの解放をペルシャのキュロス王の口を通して告げられるのである。50~70年の捕囚は、イスラエルの神の勝利として記録される。もはやそんな神など知らぬと首を横に振る人々に「この俺様を、見忘れたか」と言われる神の姿が目に浮かぶ。

新約も構造は似ている。病人が癒されるという奇跡がイェスによって行われる時に、それは悪霊の仕業だと言ってしまう律法学者に、癒しの業を「神の恵み」と褒めたたえてきたのはあなたたちだろう。また逆に病を悪霊の仕業と言ってきたのもあなたたちだろう。それが、癒しの業をも悪霊の仕業と言い放つとは何事か!「よぉく目剥いて見やがれ!これが悪霊の仕業といえるのか!」というのがイェスの言葉だ。

身内が驚いて取り押さえに来るくらいだから、律法学者に悪霊の親玉に見えても仕方がないとも思うが、相手を貶めるために、自分の最も大切なものまで投げ捨てちゃいかんでしょう。見たこともないものを目にすれば、人が不思議に思いそれを様々にたとえることはある。しかし、聖書に精通する律法学者が聖書を投げ捨てるとは何事か。神をないがしろにするとは何事か。そこにイェスの怒りはある。

見忘れたとは言わせねぇ!お前たちが手から放り投げた聖書を手に取り戻せ。そうすれば神の御業がこの地上に現れたことがわかるだろうと、イェスは言ったと読んでみた。

森 哲

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