列王記下4:30~37
マルコ2:1~12
「思いが届く」
エリシャは神の預言者ではあるが、彼に与えられた力は神のものである。ところが今回の話では、エリシャは、弟子に杖を貸し与えて子供を生き返らせようとした。ここには、エリシャのおごりが見えるように思うがどうだろう。実際のところその試みは失敗し、弟子では子供は生き返らなかった。エリシャ自身が出向いて、神に祈り、ようやく子供は生き返るのである。この時の祈りは何だったのだろう。彼のおごりの神への悔い改めだったのだろうか。
イェスの方は、屋根を剥がしてまでイェスに中風の男を合わせようとする、4人の男たちの思いに打たれて、病人に罪の赦しを告げるのである。エリシャと違い、神の子としての権威を示されたことになる。
ここで律法学者たちとの間に一悶着が起きる。罪が赦せるのは神だけだという問題である。さてイェスは神の子であるから、問題ないと考えるのは、イェスを救い主と告白する人々だけであり、人間として生きているイェスをそのように見ない人がいることは不思議ではない。先週言ったが、不思議体験だけでは神を感じることはできても、神を知ることはできないのである。病人を連れた4人も病人の癒しを求めてきたが、イェスを救い主と告白したわけではない。
もとに戻るが「罪の赦し」とは、どのようなことを意味するのか。今の私には非常に抽象的な言葉に聞こえるのだが、皆様はどうだろう。「罪の赦し」と「立って歩け」では、抽象と具象で釣り合わないと考えてしまわないだろうか。しかし「罪」とは抽象ではなく具体的なものである。
さすがに毎日罪を犯してますという人はいないだろうと言いたいが、私が車で通勤しているだけでスピード違反は当たり前すぎて「罪」とすら感じていない。人間の作った法律でも、この程度なのだから、神の目からすれば私は数えきれない罪を背負った人間である。森という人間の罪を神が数え上げられたら、広辞苑以上の厚さのレポートができるのだろう。それは抽象ではなく具体的な罪の数々なのだ。人は知らずとも神はご存じである。それらの具体的な数々の件をすべて無しにしてやろう!というのが、神による「罪の赦し」なのである。まぁ人生の半分は軽くされるのである。
それに比べれば、「立って歩け」は、簡単なはずである。律法学者たちへの批判も含めて、「立って歩け」があったと考えるが、「罪の赦し」の宣言の大きさを私たちは深く受け止めるべきと考える。
病人は4人のおかげで、罪赦された上に歩けるまでになった。それでも、この病人は「罪の赦し」と「病気の癒し」のどちらを喜んだのだろうかと問うのは、皮肉な問いだろうか。
森 哲