箴言2:1~9
マルコ福音書 4:30~34
「たとえはたとえ」
“たとえ”はたとえで、本質を示しはするが、決して同一ではない。本質の周囲をぐるぐる回っているだけである。したがって、“たとえ”で満足している限りは、本質に迫ることはできない。むしろ知的なアプローチではなく経験的・体験的なところから迫ることが早道なのかもしれない。「百聞は一見に如かず」ということだ。
それこそ神が起こされる?奇跡”を通して経験することの中に、神の本質が現れる。それは神の恵みであり慈しみなのである。神体験と言われる中でしか見えてこないものもある。そのような体験は普遍化が難しく、結局のところ「こうだった」という自分自身の証しでしか語れない。ただし、神体験だけを求めても、知的な理解が足りないことには神体験としてではなく不思議体験だけに終わり、本質の意味にまでは踏み込めないというのが難しいところだと思う。
一方、箴言は直接的で“たとえ”と言えるものはほとんどない。先にあるものを明示して、それを得るように、得るためには何をすべきかを明確に教えている。その点では、イェスの?たとえ”とはずいぶん異なっている。まさしくユダヤ教であり、律法に従えば、神の恵みを自分の手で得ることができるという思想に裏打ちされたものなのだろう。
かたやイェスには、ユダヤ教的な自力救済の考えがないと考える。神からの一方的な慈しみと憐み・赦しなしには神に近づくことができないという理解があったと考える。自力救済から仏教用語で言う?他力本願”は、キリスト教信仰にとって重大な意味を持つ。
新約の34節では、弟子たちにすべてを解き明かされたとある。弟子たちはイェスの解き明かしを聞き奇跡を見た。言葉は悪いが、決して賢い人たちではなかったと思うが、両方を聞き・見ることでイェスの言葉と業、神の本質に近づいたのだろう。かといって、人間を越えた何者かになったわけではない。人の欲や人の弱さの中に留まっていた人たちであった。この点では、今の私たちと同じであり、箴言の言葉に生きる人々とは違う。
“たとえ”やたとえの解き明かしを聞いて知ること。また人生の中で経験する神体験を通して、神の慈しみに近づくことができる。完成するとは言えないが迫ることはできるだろう。それでも神の本質に至ることはできない。それは人間の限界である。だからといって歩みを止めることはないだろう。歩む中にも神の導きはある。
イェスがこの世に来られた。そのことによる与えられた希望を持って歩み続ける時に、神の姿も輝いて見えるのである。それは?たとえ″を越えた出来事であり、箴言の伝えるような方法論から導き出されるものではない。まさに「信仰」においてのみ理解され、受け入れられるのである。
森 哲