歴代誌上 29:10~20
マルコ福音書 1:40~45
「結果オーライ」
ダビデが神殿の建設資材を集めた時に、感謝をもって神に祈ったという個所である。ダビデは名君として名高いが、彼の願いであった“神殿”建設は、神から拒否される。神は神殿などには住まない、閉じ込めておかれる方ではないという理由による。神は神殿に閉じ込められるような方ではないというのは、非常に重要なポイントである。人の造ったものに神は納まるような方ではないのだ。天地を作られた神が、いかに豪華であろうとも人の造った建物に納まるはずかない。天地全域が神の活動の場なのである。それでも神はダビデとソロモンに憐れみを掛けて、神殿建設を許された。題の通り結果オーライなのだ。その意味では、まさにダビデは神の憐れみを受けた人物であった。
同時にイェスを思う時に、神は豪華な神殿には住まないが、人となって人々の間に共におられるというのは、旧約の神のあり方を具体的に示している。と同時に、神が神殿にはおられないということを明確に表している。
新約の個所、「重い皮膚病」ではこの箇所の重さが伝わらない。最近まで“らい病”と言われた病で、律法は勿論、日本の法律でも規制されるほど恐れられた病気である。この感覚が伝わらないと、この物語の価値はほとんどない。
先週まで霊の力を考えたが、今回は律法についてである。今日の個所までの間に、病人を癒される記事と宣教するという記事が挟まれている。この律法問題は、神からのものか、人からのものかという結構難しい問題を抱えている。聖書によれば、申命記に書かれている神の言葉であるが、運用する人からすれば、ある意味で恣意的に用いることが可能な文言となる。
この病人とイェスの出会いは、病人がイェスにひざまずいたからだが、これはすでに律法に反する。“らい病”の人は、人に対して近寄らないでくださいと言う必要があった。その律法を踏み越えてイェスにすがったのである。またイェスも、憐れに思い律法に反して病人に“触れた”のである。
霊の問題から人の問題・律法へと歩みを進めるイェスの姿を描くマルコ福音書が見える。ただ、この時点でイェスが律法と対決しようとしていたかは疑問が残る。癒された病人には語るなと命じているからである。結果的にこの人により話は広まり、イェスは律法問題と向き合うことになる。この後に律法との関係で十字架への道を歩むことになる。
これもまた結果オーライではなかろうか。この時点で、イェスに十字架までの道のりが見えたかどうかは判らない。しかしイェスに与えられた道のりの始まりが、この律法からも見捨てられた男に始まるなら、律法と向き合うイェスのこれからの生き方を暗示する貴重な記事といえるであろう。そこには、イェスの思いすら越える神の計画があったと言う事ができるからである。
森 哲