申命記 30:11~14
マルコ福音書 1:21~28
「簡単なんだな」
先週の弟子たちの呼び出しと構文は同じで、旧約的な物語と読める。イェスと霊に憑かれた男の対決は、霊と霊の対決であるから、人の目に映る出来事とは異なる。病気を治す奇跡というよりは、神の権能・権威の大きさを示す記事と読むのが適当と考える。いわゆる奇跡による治癒物語は次週となるのだが、その前に置かれていることを考えるとマルコの記者は、イェスの存在を何か治癒者や奇跡を起こす人としてではなく、人となった神として強調的に描きたかったと考える。
つまり霊に取りつかれた男の言葉が真実なのだ。害をなす霊に憑かれた男の言葉こそが、イェスの神の力を明らかにすると同時に、これからの生き方、方向性を示すものとなっているのである。害をなす霊に憑かれた男は、周囲の人々がイェスを見る目よりも確かなものをイェスの中に見出していたとマルコ記者は書いて、治癒物語とは異なる扱いをしていることになる。
ただしこのように読むと、私たちが信じているような唯一神ではなく、様々な霊が存在する世界観を肯定しないといけない。私個人は、“唯一神論”を原則としているので、サタンという悪霊の存在も否定する立場なのだが、上記のように読もうとすると紀元70年代のマルコの記者は、当時の文化的な背景として「様々な霊的存在」を受け入れていたと考えないといけないことになる。この辺りは、もはや時代的・文化的な違いや、その後のキリスト教の神学的な問題であって、マルコ福音書の問題とは言えない。
さてイェスが害をなす霊に取りつかれた男から霊を取り除くのだが、イェスの言葉は極めて簡単明瞭である。『黙れ。この人から出ていけ。』である。先ほど述べたように貴重な証しをしてくれたのだが、一言で追い払ってしまうのである。鎧袖一触というやつだ。ただし、これは神である人イェスとの間でのことで、人間に当てはめるわけにはいかない。この男性も周囲を巻き込んで、これまでの長い時間を苦しんできたのだろう。人にとってはどうしようもないが、神からすればただの一言に過ぎないことであった。人の目には重くても神の目には、簡単なことであると言える。創造主と被造物の越えることのできない“差”である。
マルコで話過ぎたが、申命記の方も神は人にごく簡単に語り掛けている。神の言葉は、天地の果てに隠されたものではない。あなたの目の前に常にあると。ここまで言われると返す言葉がない。難しいとか、判りませんとかという言い訳は通用しない。なぜなら神は常に私たちと共にいてくださり、守り導いていてくださるからだ。目を開けて見るなら、その事実は私たちの日々の生活、人生のいたるところに見つけだすことができる。
願い求めて神の力を試すのではなく、私たちの目を開けさえすればよいのである。
森 哲