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説教要旨21/12/26「輝く希望」

イザヤ書 49:7~13

マタイ福音書 2:1~12

「輝く希望」

 

 クリスマスということでつい大きな題を付けてしまった。うまく分かち合えるとよいのだけれど。題の“希望”と言う言葉に似た“夢”という言葉がある。似ているようで対義語を考えると希望は失望となり、夢の対義語は現実となろう。

 

 新約の占星術の学者たちの新しい王に会いたいという願いは、希望なのか夢だったのか。私は占星術を信じないので、夢を求めて彼らは旅に出たのだと思うが、当時ならば科学に分類される学問だったのだろうから、一言で夢とは言えないかもしれない。ただ、彼らは新しい王に会うという夢がかなった幸せな人たちだったと考える。

 

 希望の方は、失望とあるように現実に足がついていると考えるのだが、どうだろう。希望の学校に合格したとか、希望の職場に就職したとか言う時には、現実的な努力があり、明確な目標にたどり着いたという意味合いが強い。希望を持つためには、目標なり自分の持つ何物かをある方向に向けて動き出す必要がある。何もないところから希望を見つけ出すことは、かなり困難なことであろう。

 

 旧約で語られている神の言葉に、現実的な裏付けがあっただろうか。これは歴史的な事実と照合してみれば判る。今日の聖書の個所はイザヤ書の中でも第2イザヤと呼ばれる部分で、バビロニア捕囚の人々がペルシア王クロスの解放令によってエルサレムに帰還が許された時代の預言者とされている。したがって預言の内容が、解放を思わせるものとなっているのは当然なのだ。しかし、第2イザヤの言葉は、クロスではなく神からの言葉である。解放するのは異国ペルシアの王、しかしイザヤが語るのは神からの言葉。これは変ではないか。第2イザヤには、クロス王の解放令も神の働きであるという理解があると考えなければならない。これは当時の世界観というか神観からして変なのだ。ペルシアにも神や神々が存在し、ペルシアはその神々の庇護のもとに存在し、他の神々がずかずかと踏み込むということは本来あり得ないのである。もちろん私たちからすれば、唯一の神・聖書の神のみが神だという信仰から読めば当然かもしれないが、それは今の信仰であって当時のものではない。

 したがって第2イザヤがこのような希望を人々に語りかける時には、世界を創造された神というボロボロの弱小民族には不釣り合いな神像を基盤にしなければ語り得ない言葉であった。第2イザヤが語る言葉には、ボロボロの人々に力を与える創造主からの呼びかけがある。そこに希望が生まれるのである。

 その希望は、クロス王の解放令をも神の御業と理解していく中で、エルサレムへの帰還とエルサレム神殿の再建という着実な信仰の歩みとなっていった。今の私たちが、神が御子を与えられたという事実の上に立って生きていく時に、希望は力あるものとして私たちを導いていく。

森 哲

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