イザヤ書 40:1~11
マルコ福音書 1:1~8
「呼び戻す声」
いよいよクリスマスが近づいてきた。今の子供たちもサンタクロースを待っているのだろうか。それともそんな夢はもはやみることがないのだろうか。『サンタクロースっているんでしょうか?』という有名な本がある。100年も前にアメリカの新聞社が子供の投書に答えてだした社説を本にしたものだ。サンタはいる。みんなの心を豊かにするために、サンタはやってくる。というような内容だったと記憶している。子供たちの心が豊かになるように、サンタクロースの働きを願いたい。プレゼントを通して、喜びがあふれるように。
私がいただいたプレゼントは、30数年前の『今年のクリスマスプレゼントはどうだい?』という言葉が最初だったかな。統一教会に入った方の説得中の言葉だった。最近は、2年前のクリスマス時期の『もう十分だよ。』という言葉だったか。もっと最近なら、先週同年齢の方のご葬儀を執り行った。これは言葉ではないけれど、そういう年齢になってきたことを示されたのだと考えている。この葬儀が神のもとに呼び戻す声でないことを、どこかで願っている自分がいる。ここまで生かされたことを感謝すればよいのであるが、まだしばらくはこの世に未練があるということなのだろう。
神からの呼び戻す声は、なにも召されて神のもとに行くことを意味しているのではない。むしろ生きよという声として響いている。イザヤにしても、洗礼者ヨハネにしてもこの世の終わりの呼びかけとしてではなく、生きていく人々が神の声に従うようにとの呼びかけをおこなっているのだ。主が来られる。主の到来を待って、その道を共に歩もうという呼びかけである。
呼びかけの声が聞こえても、そのように変われるかは聞く人によると言うのは、なんというか悲しい事ではあるが、天地創造の最初に神は人にその自由を与えられた。それゆえに人は機械のように神の指示に従うのではなく、自由な意思をもって神に従うのである。そうであるからこそ、神は何度でも呼びかけられるし、御子を通しても道を示し、人の罪を贖うために御子を十字架にも掛けられるのである。
今も続く呼びかけの声は、特にクリスマスの時期には人に届きやすいのだろう。日本においても、もはや定番のお祭りであるし、その意味を知らない人もそうはいないだろう。教会も様々な手段で、クリスマスの時期に神の呼びかけを人々に伝えるし、受け取る人々も雰囲気だけでも味わいたいという人も多い。
私個人としては、こういうゆるゆるな理解でも人々が神と御子に目を向けるチャンスがあるのは嫌いではない。勿論クリスマスをきっかけに教会に来てくれればと願うが、神様からすれば、小さなことと思われるのかもしれない。大切なのは、神様がすべての人々に対して呼びかけられていることを感じることだからである。
森 哲