イザヤ書 51:4~11
マルコ福音書 13:24~37
「終わりの始まり」
アドベントの第1主日を迎えて、いよいよクリスマス準備の時となった。まぁあっという間にクリスマス。あっという間にお正月ということになるのだろうが、それでもその日だけを注視するのではなく、その時を目指しての時間を大切にすることは、とても大事なことだ。それはクリスマスに限らない。日常の中でも予定をたてて物事を進めるのは、常識的なことと言えるだろう。
さて今日のテーマは、クリスマス前だからこそと言えるのか“終末”についてのお知らせである。イェス様のお誕生日を迎える準備の時に縁起でもないと言うなかれ。イェスの誕生は、先に彼の十字架による贖いの救いが見えるから価値があるので、何もなければ準備をしても仕方がない、と言う事は、イェスの死を求めてクリスマスの準備は始まるということになる。
聖書の民と違って、日本人には犠牲を捧げるという時に“血まみれ”というものは選ばれない。海の幸や山の幸を神様方にお供えするが、目で見て心地よいものがお供えされるように思う。これは文化の違いで、温かな血が流れる新鮮な犠牲が神への供え物であるという文化では、日本のお供えでは何だ!これは?と言われるのかもしれない。
過越祭で子羊の血が流され、それが罪の赦しのしるしとして千年以上も続いてきたのだから、それを止め、赦しを完成させるために人が血を流すというのが、贖いの十字架である。人の罪の赦しと贖いは、子羊ではなく人でなければならない、というのが基本となる。まがい物ではなく本物を捧げることが大事だということである。
これは終末を迎えるにあたり、越えなければならない大問題である。本当の罪の赦しを得なければ、終末の向こう側に行けないとするなら、何を用意すればよいのか。先ほどの子羊ではない本当の犠牲、それは人には用意できないのである。そこで神は神への本当の犠牲を、神自身が用意されて地上に送られるのである。その本当の犠牲こそイェスなのだ。神様のマッチポンプなのか? アブラハムとの契約の時もそうだが、神様って怖いのに、優しすぎませんか?そう実に優しいかたなのである。
イェスの誕生は終末が近づいたしるしである。神の計画が、人を救うべきものとして選ばれたことがイェスの誕生なのだ。クリスマスの物語では3人の博士の一人は遺体に塗る防腐剤とされている没薬を捧げる。没薬がイェスの十字架を暗示する。
私たちもイェスの誕生をもって終末を覚えるのである。しかしそれは、神の救いの計画の成就するときである。目をそむけるのではなく、自分の中にしっかりとその時が来るのを受け入れておきたい。
森 哲