サムエル記上 16:1~13
マルコ福音書 10:17~22
「捨てて得るもの」
最近は「断捨離」が社会に定着したと言ってもよくなった。私も引っ越しを控えて、色々と処分している。多くのものをきぼう工房に置かせていただいて、道行く人に貰っていただいた。亡くなった両親の残したものが多かったが、こういうものは気を遣う。持っていても困るし、捨てるのも気が引けるので、きぼう工房のお世話になった。
サウル王だが、聖書ではサウルが王座にしがみついているように書かれているが、サウルは決して王座にしがみついたわけではなかったと考える。王と言っても宮殿もなく、美酒や美食で満腹できるわけでもなく、初代の王という名前だけを与えられて戦いの中に身を置き続けて、心を病む彼であった。
それでも王であり続けたのは、ただただ神が彼を王と定めたことによる。もし神がサウルに王座から離れるようにと告げれば、サウルは喜んでその言葉に従ったことだろう。サウルが王座に未練があったとは思えない。彼は神が定めたことを守っただけのことであった。神が語りかけなかったことが、サウルを苦しめたし、ダビデとの間にも大きな溝を作ったと言える。神はサムエルには語ったがサウルには語らなかった。神に文句を言っても仕方ないが、サウルを破滅に落としたのは神であった。
断捨離の話しをしたが、捨てられる身にもなってみろとサウルは言いたかったのではないだろうか。私自身、ここを辞すると決めたのは、「もう十分だ。」という声を聞いたからで、そうでなければ悩んだと思う。70才までいや75才までなどと悩んだろう。声に助けられて今日を迎えたことになる。サウルも神の声があれば、違う道で生きていくことができただろう。
新約の持っているものを捨てて従いなさい、というのは仏教の教えにもあるように思われる。たくさん持っていると捨てるのも大変だ。自分が生きるためにあるはずが、いつの間にかそれらに縛られて、かえって自分を失ってしまうのだろう。捨てて得られるのはとりああえず“自由”である。それが良いものかどうかは判らない。捨てたものよりも良いものが必ず手に入るとは限らないからだ。もしさらに良いものを願うなら、それは捨てるのではなく取引をしているということになる。
神が捨てたサウルについて考えた。白羽の矢が立ってまさにイスラエルの犠牲としての人生だったと言えるだろう。新約のイェスの言葉に従えなかった人は、弟子たちのように殉教の道を歩まずに済んだわけで、それはそれで幸せだったのかもしれない。
不思議なことだ。聖書の記す神の選びは人間の考えからは随分と離れているようだ。捨てて得るものは、聖書に従えば人の幸福ではなく神の栄光ということになろう。
森 哲