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説教要旨21/9/19「歩んでいきたい」

出エジプト 20:1~17、

エフェソ書 5:1~5

「歩んでいきたい」

 

 先週はヤコブ書で十戒の一部を読んだ。今日の旧約は十戒そのものである。エフェソ書では、十戒にはない下品なマネをするなという内容である。エフェソ教会の人々は洗礼を受けていたであろうし、旧約聖書も読んでいたことだろう。その意味では、今の私たちとそう違いはない。

 

一回限りの洗礼に罪の赦しを盛り込んだのは洗礼者ヨハネであるが、洗礼を受けたとしても、人は生き続ける中で意図せずとも何らかの罪を犯してしまう。意図的ではなくとも、生きていく中で犯す罪の全責任を人は負うことができない。旧約の十戒でさえ、自分が意識している中での間違いに陥らないようにという方向性を出しているだけで、意図しない間違いにまでは言及していないように思う。そうでないと誰も日常生活すら満足にはできないだろう。

 例えば、私たちが何気に着ているユニクロの綿製シャツが、中国・新疆ウイグル自治区の強制労働でできたものであると言うなら、知らないうちに遠くの人をむさぼって生きていることになる。たぶん、今の日本で普通に生活するということは、そういう社会の仕組みの中で生きているということなのだ。どこかの組の親分が死刑判決を受けた。直接手は下していないが、殺意は明らかという判決だった。それが通るならほとんどの国のトップは人を殺しているし、私たちの生活も、たどっていけば誰かをむさぼり、誰かの死と結びついていると言わなければならない。

 

 エフェソ書の4節や5節は、避けようと思えば避けられる程度のことである。私個人で言えば、ここ十年ほどは下品な冗談を言わなくなったとは思う。社会がそういうものを許さなくなったこともあるし、歳相応の態度とマナーを身に着けたということなのだろう。過去については言い出したらキリがない。

 4節5節が簡単とか軽いというつもりはないが、この程度でパウロは止めたのだろう。ここから先に進むと、彼の嫌いな律法が顔を出してきて、あれは良い、これは悪いと人や自分を裁くことになるから、下品なマネはいけませんよ程度で止めたのだろう。

 

 エフェソの人々も今の私たちも、神の言葉を守って生きていきたいと願っている。しかし見てきたように、個人の思いではなく社会という仕組みの中で、自分の思いを裏切ってしまうのである。

 そうであるなら、日常的には誰からも責められなくても、底に流れる罪の問題は残り続ける。仕方ないと言って目をそらすのも一つの方法ではあるが、教会ではそこにイェス・キリストの十字架による贖い、そして罪の赦しを語り伝えてきたのである。日常の生活をごく普通に歩んでいく中でも、どうしようもなく罪と隣り合わせに生きていかざるを得ない。その罪を十字架の贖いを通して赦してもらいながら、罪も抱えつつキリストの愛に倣う歩みを踏み出したいと願う。キリスト者はそういう生き方を選んでいるといえる。

森 哲

 

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