創世記45:1~15
ヤコブ書2:8~13
「わたしの兄弟姉妹」
世界が大飢饉となり、ヨセフの異母兄弟たちが、父ヤコブの命令でエジプトに穀物を買いに来て彼らと再会した物語の最後。かつてヨセフは、兄たちに殺されかけたが、旅商人たちに奴隷としてエジプトに売られ、ファラオの夢を解き明かして、エジプトの大飢饉の対策大臣となる。
ここで兄たちと和解するが、それはヨセフの人柄の良さを示すものではない。そうではなく、ヨセフが神の計画を知ったことによるのである。自分がエジプトに売られてきたのは、この大飢饉の時に家族を救うためであったと自分の運命を理解した時に、兄たちとの葛藤は、小さな事柄となったのである。そうでなければ、飢饉の始まりの際にカナンの家族を思い出せばよかったはずだ。しかし、彼は思い出さなかったし、助けを送ろうともしなかった。つまるところヨセフは人柄の良い人物ではなかったということになる。しかし神がその彼を変えるのである。ここ大事。人はそもそも誰かに対して、(ひょっとしたら家族に対しては特に)良い人物であり続けるようにはできていない。よくいって win win の関係が持てればよい方で、与えるより得る方が多いことを願う存在である。その人のあり様を変える力が神から与えられるのである。きょうのヨセフはまさにその力を神から受けた。
一方、ヤコブの手紙では、個人の意思がその人の行動を決定するという、近代的とも言える人間観が見て取れる。この著者は、そこにおいて個人の意思が行動を起こす時に、落ち度があってはならないと説く。あることはできても、他ができなければ、それは罪に当たると語っている。この著者が本気で語っているのか、あるいは自分は正しいと思っている人々に、あなた方は決して完全ではない、完全とは程遠い存在だと言いっているのかもしれない。
誰かに対してできるということと、誰に対してでもできるということとは明らかに違うのである。正直にいうが私の考えでは、生きているうちに100回の内に51回良いとされることができれば、それは大したことだと考える。50回できればプラスマイナスゼロで、十分ではないだろうか。しかし、人にはできないが、神ならできる。自分の力では50:50でもそこに神の力が加われば60:40にも、80:20にもなるのである。神の器になる時には、それが可能になる。その時には、ヨセフのように、神の導きを感謝して証しをすることはできても、自分の力を誇るようなことはないであろう。
「わたしの兄弟姉妹」と言う時には、神が合わせられる人たちという意味なのである。自分で選ぶことができるなら、それはいくらでも優しくも好意的にもなれるだろうが、神が合わせた人に対しては、神の力を受けないことには個人の力に頼っては、どうにもならないと考える。
神の力が私の内にも与えられていることを信じ、その力がわたしの兄弟姉妹を助けることができるよう祈ろう。
森 哲