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説教要旨21/9/5「違いを越えて」

エゼキエル書37:15~28

1コリント書1:10~17

「違いを越えて」

 

 エゼキエルは、紀元前6世紀初めのバビロン捕囚によって異国の地に連れて行かれたユダの人々と共にバビロンに行った預言者である。

この点はユダの地に残った預言者エレミヤとは違う。今日の個所ではエジプトで大臣になったヨセフの息子であるエフライムの子孫とヨセフの兄であるユダの子孫であるそれぞれの部族が、神の下に一つになると書かれている。歴史を見れば、エフライム族はすでにアッシリアの侵略によって存在が失われており、エゼキエルの語る統合・統一は不可能なのだが、それでも彼は神の言うように記すのである。そこには、バビロンに連れて来られた人々と、故郷に残された人々の間の関係が述べられているようだ。かつてエフライムが歴史に消えたように、バビロン捕囚の人々も故郷から離され、異邦人の地でアイデンティティを失い異邦人に同化してしまう危機でもあった。ところが彼らはむしろそれまでの神との関係を深く考え、献げものによる祭儀宗教から、神の言葉に聞き従う教義宗教への道を見つけ出すという驚くべき進化を遂げたのである。

 

 その進化がなければ、彼らも歴史の彼方へ消えたことだろう。しかし、捕囚の人々は祭儀宗教から教義宗教に変わったユダヤ教と共に故郷に帰還し、同胞と再会することができた。神殿は失われていたが、再建を果たし、エルサレムの城壁を整え、自分たちの信仰の場を取り戻すことができたのである。それにはエゼキエル以外にも何人もの預言者や多くの人々が関わったのであるが、その働きを支えたのは神ご自身であった。神の力や導きなしに、歴史に消えそうな人々が故郷に帰還し、信仰の場所を再建することができただろうか。

 

 私たちは、この歴史の流れを過去の事として聞いてはならない。神の導き、神の力は今も働き私たちを支え導いているのである。それがなければ、人間の力ではなし得ないからである。教会の歴史もまた同様である。教会の誕生から約2000年、様々な歩みがあって今の香櫨園教会に繋がっている。その流れを作った人々すべてを私たちは知ってはいない。ざっくりと戻るとアメリカからの流れであり、イギリスに端を発し、その大元はローマカトリック教会、さらに分離するまでのカトリック教会。そして使徒教会へとつながるのだろう。

 

 様々な多くの人々が繋いでくれたことが、今の香櫨園教会に流れ込んでいる。それぞれの面を拡大すれば、争いもあったろうし、分裂もあった。しかし歴史の主である神は、そんな事柄を越えて導かれた。

 パウロがこの書で心を砕いたコリントの教会は、今日目に見えて存在しない。しかし聖書に残されることで今もあり続け、教会の弱さを明らかにしながらも神の導きが絶えないことを示している。

森 哲

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