列王記上 3:4~15、
第一コリント書 15:42~58
「終わりと再生」
パウロの言葉であるが、この箇所を理解する時には、やはり時代・場所の背景について知っておく必要があるようだ。コリントという港町は、地理的理由から貿易の町として豊かに栄えていた。ひょうたん型をしたペロポネソス半島のくびれ部分にあり、文化的にも栄えていたし、船乗りたちが集まる享楽的な町でもあった。
そんな町の人たちに復活について語ろうとパウロはした。ギリシア文化の影響を受け、様々な文物が混じる中で解説するには苦労があったことだろう。ユダヤ教的な復活理解をヘレニズム文化に伝える時に、文化的なニュアンスは伝わるのだろうか。たとえば“おちゃわん”という日本語を「Rice Bowl」と訳したら伝わったことになるのか。意味的には同じかもしれないが、“おちゃわん”という単語に含まれる、大切なという「お」の文化的意味までは伝わらないように思う。
ギリシア文化では、人は死後、霊界に行って時間がたつと転生するという考えであったそうだ。そのような文化の中に「復活」を語るパウロは、今日のように述べるのだが、「朽ちない身体」と言う時には、今の私たちが考えるような「永遠の身体」という意味で語っていたのだろうか。むしろ「転生」に対して「一度きり」を言いたかったのではないか。死んで復活するのは一度きりで、転生して別の人生を歩むということはないのだ、という意味合いが強いのではないかと考える。
肉体が死をきっかけに朽ちることは、古来誰でもが知っていることである。その朽ちるものが朽ちないものへと変える力は何か。パウロはそこに47節の「第二の人」イェスを復活させた神の力を見る。ギリシア文化の中に生きているコリントの人々が、パウロの言葉もギリシア文化の中で考えられる“霊界”と理解しようとしたかもしれない。それとは違うとパウロは言葉を続ける。
ギリシア文化との違いは、最後に出てくる「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」という個所にも表れていると考える。パウロはコリントの教会の人々に霊の身体による復活を伝えると同時に、律法と罪の関係、すなわち律法によっては義とされないという点に力を込めたのではないだろうか。この読み方なら律法によって義とされるのではなく、信仰によって義とされるというパウロの主張は維持されていくと考える。行ないによって救われるのではなく、信仰によって救われると言い換えることができる。そしてそれは、転生を考える人たちに対して、一度きりの人生と死後の世界を示したことになる。
私たちにもパウロを通して、復活と朽ちない身体への希望が与えられている。
森 哲