創世記 21:9~21
ローマ書 9:19~28
「救いはみんなに」
物語は自分の主人・子供の父が二人が死んでも良いと思って二人を追い出す話しである。殺意はなくても未必の故意は明らかである。妻のサラを責めるのは筋違い。全責任者は族長であるアブラハムにあるからだ。その上に聖書では、先に神が二人を助ける約束をしているので、一安心だったのかもしれない。まことにアブラハムに都合の良い提案をしてくれる神様だ。そして次の朝、彼は二人を追い出す。
というわけで母のハガルとイシュマエルは水すらなくなり、死の一歩手前まで追いやられた。そこに神の使いが現れ、神が子供の泣き声を聞かれたと告げ、二人を助けてくれる。
長子の特権はイサクに移り、イシュマエルは別の民族として立てられていく。イスラム教はこのイシュマエルの子孫ということらしい。法律的には長子であるイシュマエルが財産を継ぐのは当然なのだから。そういう主張からイスラム教とユダヤ教が折り合うのはなかなかに難しいことが判る。
そういうわけで、神がアブラハムに約束された子イサクが長子の特権を引き継いでいく。
だがちょっと待った。イサクが相続するならサラとハガルの物語そのものが無くてもよくないか。ハガルの物語をカットして、サラに約束通り子どもが生まれました。その子はすくすく育ちましたで良いではないか。ハガルの物語がカットできないのは考えて2つ。ひとつは事実をありのままに描いたから。二つ目が、アブラム-イサクの正統な流れを認定しながらも、他民族への気配りがこの時点からすでに用意されているという読み方。おそらくは両方なのだろう。神の計画はアブラハムの流れを主流としながらも、他の人や民族の流れの中にも、聖書に描かれないだけで神はしっかりと関わっていたということになる。
今日の新約のパウロの話しにも繋がってきそうである。つまり旧約聖書が描いてきたのはヘブライ人の歴史であり、その中に働かれた神の姿であった。他の民族は、主という神の名を知らないままで生きてきたわけだが、なお神自身はその民族の歴史の中でも働かれたということだ。それが今や異邦人伝道によって、神を知らない人々にも明確に神の救いが宣べられるようになったというのが、今日のパウロの主張である。
それなら話は早い。神が世界を創造されそこに人を置かれた。すべての人は神によって命を吹き込まれて生きており、知ろうと知るまいと神と無関係に生きている人はいないということになる。それなら、“ユダヤ人”や“教会”やと言って椅子取りゲームみたいなマネをしなくても良いではないか。神が作ったものなら、“救い”の席も十分な数が用意されているだろう。救いはみんなに!与えられている。それを知って、信じて生きている方が、この世に悩まなくて済むように思うが、どうだろうか。
森 哲