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説教要旨21/7/11「マネッコの失敗」

エレミヤ書 7:1~7

使徒言行録 19:11~20

「マネッコの失敗」

 

 学ぶことの始まりはマネをすることである。師匠・先輩たちのマネをして、その上で自分のモノを作り上げる。習い事はマネの中から自分のモノを見出して発展させていくのが、標準的な方法なのだと思う。マネもなしに勝手をしても上達は望めないと思うのは間違いだろうか。

 

 今日のスワケの息子たちの話しだが、イェスの名によって悪霊を追い出しているパウロの噂を聞いて、自分たちも同じようにしたのだろう。ただ悪霊たちから、お前たちのことなど知らないと逆にひどい目にあわされたという話しである。面白いと笑ってよい話だと考える。

 

 著者のルカが支援者のサポートを受けて使徒言行録を書いた時に、宣教だけでは人は喜ばないので、ワクワクする面白いエピソードや、次はどうなるのかという期待させる話で興味を引いたとされている。したがって今日のスワケの息子たちのエピソードは、聞く人々の興味を引くための味付けと読むのが適当と思われる。聞く人たちは、それはそうだ、イェスの名前だけで悪霊が引き下がるものでもないだろう。イェスを信じることこそが大切なのだと理解したことだろう。

 

さてここからは難しい話になる。イェスの名を勝手に用いることは許されないのかという問題である。先の話しからはダメということになるが、マルコ9:39ではイェスはそれを許している。しかしマタイ24:5では、イェスの名によって人々を惑わす者が現れるとも述べている。この話からは、“正統”と“異端”という問題を読み出すこともできる。

 

イェスの十字架の“赦し”によって、それまで越えることのできなかった神との間の溝を人々は越えることができるようになった。十字架で溝が埋められたのだから誰でも神と結びつくことができると考えるのか、いやいやイェス・キリストという橋が掛けられたのであって、イェス・キリストを通さないと神とは結び付くことはできないと考えるのかである。さらにその橋は「教会」という橋の門番が許さないと通れないのか。

私としては答えに悩むのである。ただ現実にはイェスの名によって人を惑わし、金儲けをする団体もあるので、イェスの名を無制限に用いることには反対する。しかしそれは社会的な問題であって信仰の問題とは違うとも言えるのである。中にいる信者は、純粋な信仰者だったりする。

 

信仰によりイェスの名が用いられるとして、その信仰を教会や人が判断できるのか。信仰の中身まで人は判断できない。最終的には神にお任せして、自分は賛成するか反対するかしかできないのではないかと思う。

 

 話しを戻すと信仰もまた受け継ぐものだから、マネッコから始まる。その始まりは、出会いという場から始まる。よい人たちに出会えれば、豊かな信仰も引き出されるし、神に喜ばれる信仰者となれるだろう。

森 哲

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