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説教要旨21/6/27「みんなで生きる」

イザヤ書 49:14~21

使徒言行録 4:32~37

「みんなで生きる」

 

 約2か月ぶりに顔と顔を合わせて礼拝を守れることを感謝したい。

 今年の聖霊降臨節は、“聖霊”という言葉にこだわることなく、人と人の繋がりというところに焦点を当てた聖書個所として読んできた。そしてそのひとつの仕上げが今日の「みんなで生きる」という説教題になってる。

 

 日本の教会でこの「みんなで生きる(ために)」という言葉はよく使われる。もともとはネパールで働かれた岩村昇医師の体験談から生まれた言葉である。JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)から1962年に送り出された岩村先生が、病人を病院へ連れて行くにも方法がないと困っていたところに、若者がその病人を背負って3日間の道のりを歩いて病院まで運んでくれた。お礼を渡そうとしたら断られ、「お金のためではない。みんなで生きるためだ。」と若者から言われた話を日本に持ち帰られたのであった。

 

 今日の使徒言行録を読むとまるで理想のように思う人がいるかもしれないが、このような共同体は短期間で終わる。次の5章では早くも嘘つきが現れる。もう少しすると使徒たちが、福音宣教ではなく、みんなの食事のことで忙しくなることを嫌って、執事を立てるという個所も出てくる。残念かどうか理想と現実では現実が強いのである。それでも理想を追いかける人がいる限り、時間の流れの中でその理想が現実になることもあるのだが。

 

 理想の社会を目指すことは大事だ。しかしそこに神の思いが詰まっていることの方がもっと大事なことだと考える。人の持つ理想の一つには人間平等という考え方がある。生まれながらの平等という考え方である。しかし特に旧約聖書では、このような意味での平等という考え方はない。むしろその罪ゆえに人は神の前に失格者であり、神の赦しなしには存在さえ許されないモノとして描かれる。しかし神はまことに不思議なことにヘブライ民族を選び出してご自分の民族とされ、支え守り導いていかれるのである。彼らがいかに神から離れようと、怒りながらもご自分の言葉ゆえに彼らを捨てることなく、彼らを憐れみ、慈しまれるのだ。これを“平等”と言えるのだろうか。

 

 今日の「みんな」は、人と人の集合としての「みんな」ではなく、神と私たちを集合して“みんな”と理解する。人と人とが結びつくことは大事であるが、それらは時間と状況で変化するものだ。しかし神が約束された事柄は、人の都合や状況で変わりはしない。なぜなら神ご自身がご自分にかけて誓われたことだから。そのためにイェスを送り出し、人の罪を滅ぼすために彼を十字架に掛けられ、復活させ、天に上げられた。

 

 人と人との間にだけで平等を語ることは、場合によっては混乱を生むことになる。人と人との関係の前提として、私たちは常に神のもとにあり、神と共に“みんなで生きる”ことを覚えたい。

森 哲

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