申命記 26:1~11
第二コリント書 8:1~15
「分かち合う喜び」
今の時代、そしてこの場所に置かれている私たちは、まことに幸いなことに日々の食べ物や住まいに困ることなく過ごしている。それが当たり前でないことは、様々なニュースなどで知らされているのだが、それに対して今すぐに何かしましょうというのが、この説教の趣旨ではない。
まず第1に理解すべきは、今の私たちの生活は私たち自身の努力以上に、神の恵みによって与えられたものであることである。世界各地で争いの中、銃弾や爆弾が降り注ぐ場所で生きている人々以上に、私たちが正しかったり潔く生きているから、この生活が与えられているわけでないことは確かである。
第2に理解すべきは、私たちはそのような状況に対しても自由な判断と自由な行動をとることが許されているということである。何らかの具体的な形で関係することもできるし、周囲に知らせたり祈るというかたちで関係することもできる。知らぬ顔すらもできる。それぞれの判断や決断、無知や無視すらも尊重されるべきであり、こうでなければならないという強制を誰かから受けるようなものではない。その上でなお分かち合うことの喜びについて今日の聖書から読み取りたいのである。
今日の申命記は、第1のことを理解するのに役立つだろう。出エジプトで導き出されたヘブライ人たちは決して高潔でも神を神とする人々でもなかった。ただ神ご自身が、ご自分の名において約束されたことを実行され、彼らをカナンの地に導かれ生かされたのである。
第2コリントのパウロの言葉は、第2の理解につながる。互いに支え合うことを勧めるが、それは自由な判断のもとに喜んでされるべきであることをパウロはコリントの教会に求める。コリントの人々は当時としては豊かな人々であった。港町で物流の拠点であり様々な文物が通過していく中で、彼らの生活は安定的で豊かであった。だからこそパウロは言うのである。分かち合うことの喜びをあなた方は知ることができると。
このような分かち合うことも、その喜びも言わば練習によって力がついていくと私は考えている。人は誰でも我が身が可愛いのだから、誰かからの強制でもないとなかなかに自ら出すことは難しい。しかし、今のこの時代・場所はモノによってではなく、ちょっとした心配りという目に見えないものの中に大きな価値があったりする時代・場所であるように思われる。たとえば教会のグループLINE に写真や暖かい言葉が載せられることがある。これらは直接的な意味でモノではない。しかし受け取る方にとっては喜びとなることがある。そんな積み重ねから生まれてくる思いこそが、与えられている恵みを分かち合うことへの成長であり、自由な働きとなる。
神から与えられている恵みを感謝して受け、分かち合う喜びにまで至れば、その喜びは受ける喜びだけでなく、神の喜びともなる。本当の意味で豊かな世界を垣間見ることができる時を共有できると考える。
森 哲