エゼキエル書 18:25~32
使徒言行録 17:22~34
「聞いても分からない」
聖霊降臨日に弟子たちに聖霊が降り、他国の言葉で神をたたえた。他国から来た人々は驚いたという記事を読み、先週は三位一体という教理の中には、神が誰でも慈しんでおられるという個所を読んだ。
さて今日は、イェスの直弟子ではなく、むしろイェスを信じる者たちを牢屋に放り込むことを神が喜ぶと考えていたパウロと呼ばれる人についての記事。このパウロはイェスを信じる人々を迫害していたのだが、復活のイェスが彼の前に現れ生き方を180度変えられて、イェスを告げ広める役割を負わされた人であった。それもユダヤ人にではなく、聖書の神について知らない異邦人に向かってイェスの復活と赦しを伝えていったのである。
今日の個所は、そんなパウロがギリシアのアテネという都市で復活を伝えた時のエピソードである。読んでみれば完全な失敗であったことがわかる。ギリシア哲学・学問の聖地で、死者の復活を伝えるなど、ローマ・カトリック教会の聖地・バチカンで親鸞聖人の教えを説くくらい無謀な話しである。ギリシア哲学からいえば、この世は仮の姿、本当の世界は向こう側にあって、死後はその本当の世界に移ると考えているのに、仮りの世界にわざわざ死んだ人間が復活してくるなどあり得ないというのが基本的なギリシア人の考え方である。
この点は今の教会にとっても微妙な点である。今や“天国”を先に置いた教会にとってイェスの復活は、本当に必要だったのかということになる。イェスの復活によって天国が罪ある人にも開いたという理解なら判らない事はない。天国を知らせるために、招くために戻ってきたと考えるなら信じることも可能かもしれないが、そうでもなければ信じることはないだろう。
私たちもアテネの人々同様に頭で考えても“信仰”という場には到達できないのではないと考える。実際に教会に身を置いてみる。それでも判らない。牧師や信者に聞いても、すっきりと判るわけではない。それでもその場からは、信じる者たちの“気”のようなものが感じられるはずである。信じる人たちがいるから本当かもしれないと思えれば、それは素敵なことだろう。考えればおかしな話なのだが、教会の場というのは頭で判った人たちの集まりではなく、信じた人たちの集まりの場なのだから、論理ではないのである。人それぞれが違い、それでいて同じ神を信じる場所が教会なのだ。
信仰もスポーツやお稽古事と同じでかもしれない。同じことを繰り返していくと頭ではなく体が動くようになる。頭ではなく、体が動くようなった時に進歩するのと同じなのだろう。頭で考えることは大事だけれど、体や心は思い通りには動かない。繰り返しの中で身体が覚える。体得するのである。
雷に打たれたように突然信じる人がいないとは言わないが、ほとんどの人は、上記のような道を歩いて教会に残っている。いや教会に残されているのである。実際には、残念ではあるが卒業していった人たちも多いのである。そして教会に残されている自分の中に働く神の力を改めて見つめて、また信仰を深めていくのである。
森 哲