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説教要旨21/5/30「だれもが神のもの」

イザヤ書 6:1~8、

エフェソ書 1:3~14

「だれもが神のもの」

 

 三位一体主日は、神が人を創造され、キリストが人を愛され、聖霊が人に送り込まれたこと、その3つの力・働きは一つであることを覚える日である。

 

 かつてローマ・カトリック教会は「教会の外に救いなし」と公言し、教会に神の救いを限定していた。またカルバン派は、予定説を用いて神の救いは、すでに予定された人に与えられるものであるとして、神の側につく人とそうでない人とに分けた。このような教理や考えを、私にはどうにも受け入れられないのである。

 

プロテスタントもローマ・カトリックも教会が神を宣べ伝え、イェスの福音を告げていることは事実であろう。そしてそれによって救われる人々がいることは、これも事実である。しかしさて、だから教会が“神の救い”の門番であり関所なのだろうかと考えるのである。

これが当然という方々は、自分の力のなさを神の前に深く深く懺悔すべきであると考える。自分たちの力が足りないからイェスの福音に触れる人が少ないのであることを思わず、信じない者は救われないと言うのは傲慢であろう。

 

今の世界では、キリスト教といっても様々な理解や活動があり、これが唯一の教会ですと言えるものはない。ローマ・カトリック教会でさえ、かならずしも一枚岩ではない。ましてやプロテスタントは世界で約6,000もの教派に分かれているとも言われるほどである。

であるなら、各教会の理解も神の赦しのもとにあり、その活動は祝福されていると考えるべきであろう。そしてその赦しと祝福は神から来るのであり、自分たちの理解や信仰のあり方によるのではないことになる。

 

神が赦され祝福されるのであることを知る時に、人間や教会が、人を裁いたり区別してよいのだろうか。先に述べたように、様々な個性をもった教会があるから救われる人も増えるのであって、大きな意味で一つの教会しかなく、そこが自分と合わなければ、他に行く教会はないことになる。しかし幸いなことにというか、様々な個性の教会があって、そのうちのどれかに合うことだってあるだろう。それでよいではないかと思うのだ。

 

神が命を与えて置かれた時代・場所で人は生きていく。人は誰でも神のものなのである。善人も悪人もいるだろうが、どんな人でも神のものなのだ。そう思えば、誰もが神に慈しまれて生きていることを覚えることができる。そこから誰にでも神の慈しみが届くようにと自分の生き方も変わっていくのだろうと考える。

森 哲

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