サムエル下 1:17~27
ヨハネ福音書 14:1~11
「いのちの先に」
キリストの復活から聖霊降臨までの期間、“死”と“復活”考える時に、やはり私たちの死後のことについても無関心ではいられない。この疑問は昔からあった。
パウロも第1コリント15:35~44などで当時の人々のその疑問に答えようとしているが、これも読み方で解釈が変わる。
使徒信条で「からだのよみがへり」と告白するが、高齢者のまま復活しても…とか、病気の私はどうなるのか…といった疑問は出てくると思う。
これに対しての統一したかつ明確な答えを私は知らない。葬儀について、ローマ・カトリック教会が、1963年7月5日付けの死者の埋葬の指針『一貫性と一定』で「信者の遺体を埋葬する慣習を忠実に守るように」と規定し、火葬は、「それ自体キリスト教に反する」のではないと加えた。さすがローマ・カトリック教会である。肉体がなければ復活できないという伝統を、20世紀半ばまで守ってきた。
私の学生時代にキリスト教史の先生が、「どんな身体で復活するのかという疑問に対しては、イェスが復活された年齢を考えると、みんなもそのくらいの年齢で復活するのではないかと主張した人々がいた。」と答えられたことを思い出す。はたして本当なのか、かなりの数の疑問符が付く。
旧約の理解はしごく簡単である。神は死者に関心を持たない。「陰府」という倉庫のような場所で終わりの日(裁きの日)を待つだけである。そこには善人も悪人も区別などないのである。
今日の旧約でダビデのサウル王とその息子ヨナタンに対する嘆きの言葉は、死後については触れてはいない。神の守りや慰めにも触れていないのは、旧約的な死の理解があるからで、ただただ生前の雄姿が語られているだけである。
ところが今日のヨハネ福音書のイェスは、明らかに“天国”をイメージさせる個所である。そのためにイェスは神のもとに「行く」と言い、用意ができたら「戻ってくる」と言われるのである。この箇所は、今の私たちのイメージされる死後の“天国”とかなり近いと言える。行くとは死を表しているし、戻ってくるは復活である。そうであるなら、私たちも用意された場所に迎えられて「行く」ことができると考えるのが正しいことになる。
死後と葬りを考える時には、パウロのように考えるのと、今日のイェスのように伝えるのとでは、ずいぶんと理解も変わるだろう。ただどちらも死をもってその人の“終わり”とは考えていないことは確かである。そこには復活をもって死に勝利されたイェス・キリストの希望が見える。
あとは神にお任せしよう。知る必要もなかろうというのが私の考えである。
森 哲