列王上17:17~24
マタイ福音書12:38~42
「どんな時でも」
今日のエリヤ物語の前半は、王の迫害を逃れたエリヤが食べる物も無くなったこの母子の前に現れて居候になった。それ以後は二人が最後の食物としてあった小麦粉も油も壺の中から尽きることがなかったという話。
つまりこの母子はエリヤという居候のお陰で、食べることができ命をつないできたのである。ところがその息子が病気で亡くなると母はエリヤをなじるのである(18節)。本当ならすでに二人とも死んでいるのだが、あんたが来たから息子は死んだという母であった。今日まで生きられたのは誰がいたからかという考えはない。今だけが問題とされている。息子が蘇生した後の言葉も、必ずしも信仰の告白だとは思えない。ただ息子が生き返ったという出来事に驚いただけである。
彼女を非難する気はない。私だって同じなのだ。毎日食べ物を与えられ、この世界の中でも最も豊かな時代と場所にいながら、なんだかんだと不満を言って生きているのである。この母から読み取れるのは、実のところ奇跡によっては、人は信仰へと導かれるとは限らないということである。目の前で毎日奇跡を体験しても、それが当たり前になると何かが起これば、神などいないと考えてしまう。
イースターを祝ったが、イェスが十字架に掛けられ3日目に復活したと聞かされて、誰が信じるだろう。よほどのお人よしか愚か者くらいのものだろう。そういう面がないとは言えないが、神の力が働くときに、“信仰”に招かれるというのが正しいのだろう。“信仰”とは、自分の力では到達できない場所にあるのだと考える。聖書の理解とか解釈というのとは全く別のものなのである。学びや修行を積み重ねていけば到達するというものでもない。
だからイェスは律法学者やファリサイ派の人たちに、旧約のヨナ書で神に逆らい大魚に呑まれたヨナの話をしたのだろう。
私は昔から思っているのだが、いつの時代でもユダヤ教の幼児たちは聖書の話しの中でヨナ書が一番好きに違いない。あれほど面白くドキドキさせる話はない。詳細に読めば難しく深い話だが、聞くだけで胸がわくわくするではないか。つまり子供でも知っていることを、あなたたちは知らないのだと思いきり皮肉っている。
小さい時から聞いていたのに、神の思いや行動が判っていない。ヨナのように神に逆らおうと文句を言おうと、神は神の思いで働かれる。神を知ったつもりの人の思いとは無関係、神には知ったこっちゃないのである。
イェスの復活のすごさは、この神の人の思いを飛び越えた働きにある。信じられないのが当然なのかもしれない。しかし、神がそうされたのである。
私たちにできることがあるとすれば、頭を下げてそうなのですねと受け止めるしかない。
森 哲