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説教要旨21/3/7「自分の十字架を背負って」

マタイによる福音書16:13-28

「自分の十字架を背負って」

 田中耕大神学生

 

 芥川龍之介による短編作品の中に「闇中問答」というものがある。3編からなり、そこでは「或声」と「僕」の対話が描かれている。私たちも人生において、「声」を聴くことがある。その声は、果たして「天使」か「悪魔」か、それとも「霊」であろうか。

 

 今回の聖書箇所でも「サタン」即ち「悪魔」が登場している。13-20節の前半における「シモン・バルヨナ」という呼びかけと、後半の21-28節における「サタン」という呼びかけは、際立って対照的なものである。

 21節は、イエスの受難復活予告である。イエスは自身の歩みが十字架の受難へと繋がることを予期していたのだろう。しかし、この発言に対して22節でペトロは、イエスを「わきに連れて」、「怒鳴りつけている」。

 

 ペトロの叱責の後、イエスはペトロに対して、「私の後ろへ去れ、サタン。お前は私の罠(つまづき)だ。なぜなら、お前は、神のことに心を向けていないからだ。だが、人間のことを。」と語っている。

 「サタン」ないし「悪魔」とは、聖書において「神への忠誠度を問う試験者であり、そのための神の使い」である。ペトロの叱責は、イエスにとって、まさに神への忠誠度が問われる言葉として響いたのだ。

 そして、イエスは「もし誰か、私の後ろに来ることを望むなら、自身を否定し(放棄し)、自身の十字架を担ぎ、私に従え」と語る。十字架刑の重要な過程の一つに「受刑者が架かる十字架を自らの手で背負わせる」というものがある。十字架刑とは、十字架を背負わせることによって、その者を徹底的に辱め、徹底して痛めつける、まさに人間の抹殺装置であった。

 

 十字架とは、背負わされるものである。しかし、イエスは十字架を「自らが背負うもの」として語った。それは、何より彼が、人間の痛み、苦しみの内に神の呼びかけを聞き、共に痛もうとされ、そのために自らの命を投げ出していたからである。そして、イエスは十字架を背負う中で、神の呼びかけの内に明らかになる命こそを、「命」と呼んだ。「サタン、引き下がれ」という絶叫は、イエスの神に対する逆説的な信仰告白と言えよう。

 

 主イエスは、まさに十字架の道を歩まれた方であった。我々は、イエスの絶叫の内に、我々の痛み目を注ぎ、共に歩まれる十字架のイエスの姿を、目にするのではなかろうか。そして、十字架を負われる主イエス姿の内に、私たちは本当の「命」を目にするのではなかろうか。そして、私たちはキリスト者として、如何なる道を歩むことが出来るだろうか。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」。受難節の間、この言葉に向き合って歩みたい。

 

田中耕大

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